わたくしたちにとって一番の幸いは、神の顔の前にあって眼差しを注がれ、その声を聞くことです。主イエスは言います。「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」。
はじめの人アダムは、神の顔の前に生きる幸いを頂いてきました。けれども蛇に唆されたとき、アダムは自分に注がれている神の眼差しを見失います。アダムは、取って食べるなと神に言われていた木から実を取って食べてしまいました。すると、やって来た神の足音が恐ろしくなり、アダムは神の顔を避けて木の間に隠れます。神はそのアダムをなお呼びご自身の顔の前におらせます。「お前はどこにいるのか」。隠れたアダムにも神の眼差しはなお注がれていました。
主イエスは言います。悪い僕が、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしていると、思いがけない時に帰って来た主人に厳しく罰せられる。この僕は、主人が帰って来るまで主人の眼差しを見失います。しかし、主人の眼差しのもと、時間どおり僕が使用人たちに食事を与えることが幸いです。使用人にも仲間にとっても、主人の眼差しのもとにあるのが、幸いです。主人は不在の時もこの眼差しを届けるよう僕に言いつけたのです。
主イエスは神の眼差しのもとにわたくしたちを招きます。この神はわたくしたちの造り主です。造り主の顔の前に眼差しを注がれ、その声によって、わたくしたちは生かされます。そのようにしてわたくしたちは生を与えられたのであり、死んだわたくしたちさえも、この呼び声によって生かします。神さまは十字架で死んだ主イエスを復活させてくださいました。死者の中にまで神の眼差しは注がれ、その声はわたくしたちに命を得させるのです。