2017年4月9日日曜日

「苦難を共に担う神」マタイによる福音書24:15-31

(しゅ)イエスは、死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させられた(のち)指示(しじ)しておいた(やま)弟子(でし)たちに()い、いいました。「わたしは()()わりまで、いつもあなたがたと(とも)にいる」。その(しゅ)イエスが(いま)どこにおられるのか、代々(よよ)教会(きょうかい)は「全能(ぜんのう)(ちち)なる(かみ)(みぎ)()したまへり」と告白(こくはく)します。ならば、「(ひと)()()る」と(しゅ)イエスがいった「そのとき」まで、このわたしから(はな)れておられるのか。
(おお)きな(わざわ)いに()い、苦難(くなん)(おちい)ると、「(かみ)はどこにいるのか」と()いたくなります。わたしを(すく)(かみ)がおられるしるしを(もと)めます。しかし(しゅ)イエスはいいます。「『()よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と()(もの)がいても、(しん)じてはならない」。「預言者(よげんしゃ)ヨナのしるしのほかには、しるしは(あた)えられない。つまり、ヨナが三日(みっか)三晩(みばん)大魚(たいぎょ)(はら)(なか)にいたように、(ひと)()三日(みっか)三晩(みばん)大地(だいち)(なか)にいることになる(12:39-40)」。(しゅ)イエスは三日目(みっかめ)死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させられました。

(しゅ)イエスはご自身(じしん)十字架(じゅうじか)()()からの復活(ふっかつ)こそが、インマヌエル、(かみ)我々(われわれ)(とも)におられる(1:23)しるしと()ます。(じつ)に、(しゅ)イエスご自身(じしん)、「わが(かみ)、わが(かみ)、なぜわたしをお見捨(みす)てになったのですか」と大声(おおごえ)(さけ)んで()にました。(しゅ)イエスは(かみ)不在(ふざい)()をその()()け、十字架(じゅうじか)()んでゆかれました。(かみ)()でありながら十字架(じゅうじか)(くる)しみから(すく)われないまま、()んでゆかれたのです。しかしこの(しゅ)イエスを(かみ)三日目(みっかめ)死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させました。

(かみ)さまは()んでしまった(しゅ)イエスにまでなお(のぞ)み、このお(かた)復活(ふっかつ)させました。(いま)やわたくしたちはキリストが克服(こくふく)した()(むか)えます。(かみ)不在(ふざい)()はこのお(かた)(にな)()ってくださいました。このお(かた)(かみ)復活(ふっかつ)させたからには、もはや、わたくしたちは(かみ)不在(ふざい)()(むか)えるのではありません。わたくしたちが(かか)える()をも(くる)しみをも、(かみ)(とも)(にな)っておられます。わたくしたちを礼拝(れいはい)(まね)いてくださった(かみ)は、この事実(じじつ)(あずか)らせてくださるのです。