2018年7月29日日曜日

「宣べ伝えられてきた復活」コリントの信徒への手紙一 15:12-20

「キリストは死者ししゃなかから復活ふっかつした、とつたえられているのに、あなたがたのなかのあるものが、死者ししゃ復活ふっかつなどない、とっているのはどういうわけですか」。パウロはここで、わたくしたちにつたえられられてきたキリストの復活ふっかつというのは身体からだのよみがえりを約束やくそくするものであると確認かくにんします。かみはキリストを、身体からだをもって死者ししゃなかから復活ふっかつさせたからです。
復活ふっかつさせられたキリストが弟子でしたちにあらわれたとき、弟子でしたちは亡霊ぼうれいたのだとおそれます。その弟子でしたちにキリストは手足てあしせます。「わたしのあしなさい。まさしくわたしだ。さわってよくなさい。亡霊ぼうれいにはにくほねもないが、あなたがたにえるとおり、わたしにはそれがある」(ルカ24:39)。そうって、弟子でしたちのところにあったざかなたいららげてしまいます。キリストは身体からだをもって死者ししゃなかから復活ふっかつさせられ、身体からだをもって弟子でしたちにあらわれました。
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教会きょうかいはこの復活ふっかつあかししてきました。それはなにか、「あのひとんだけれども、あのひと精神せいしんわたしなかになおきている」というおもいをこころいだかせ、「あのひと精神せいしんぐ」ことを目指めざすのではありません。むしろ、あらわされたキリストの復活ふっかつにおいて約束やくそくされた身体からだのよみがえりをかみがわたくしたちに実現じつげんしてくださるへと、ここからあらたにってつことに主眼しゅがんがあります。キリストはたん霊的れいてき復活ふっかつしたのでなく、身体からだをもって復活ふっかつさせられたからです。
偉大いだい精神せいしん継承けいしょうとうとはたらきですが、かみ教会きょうかい委託いたくしたのは、キリストを復活ふっかつさせたかみちかららせ、わたくしたちの身体からだをよみがらせるかみ約束やくそく実現じつげんへと、あががらせることにある、パウロはとます。わたくしたちの初穂はつほとしてキリストは死者ししゃなかから復活ふっかつさせられました。かみはここに、わたくしたちの身体からだのよみがえりを約束やくそくし、わたくしたちをキリストとひとつとし、このかた復活ふっかつをこの実現じつげんしてくださるのです。

2018年7月15日日曜日

「よりどころとなる福音」コリントの信徒への手紙一 15:1-11

かみめぐみによって今日こんにちのわたしがあるのです」。これは、ある試練しれんて、しかしひとおおきなやまえさせていただいたことでえる言葉ことばです。おおきな災害さいがいにあって、なおくすほかないなかでは、とてもこうはえないとおもいます。ただそれでも、かみさまはわたくしたちにたい真実しんじつであり、そううことのできるへと、ここからかわせてくださいます。
パウロも、試練しれんながら、しかしそううにいたらせられました。ただかれ自分じぶん労苦ろうくをここであげず、みずからのかたります。かつて「わたしはかみ教会きょうかい迫害はくがいした」。パウロにとってはいまがなくなったわけではありません。かれめるものがまだいた。それでもパウロは、かみめぐみによってなおわたしをたせてくださる、という信頼しんらいみずからをかけます。がありますから、パウロがてるのは、そこしかありません。そして、このかみめぐみにたせていただくのです。
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コリントのものたちは自分じぶんかみめぐみによってつとみとめていなかったわけではありません。ただ、あらわれてえたのは、「わたしはっている」とたかぶる姿すがたです。「偶像ぐうぞうそなえられたにくべても、けがれるわけではない。そうただしくえる知識ちしきっている」。「異言いげんかたり、ほかひとにはない霊的れいてき賜物たまものっている」。たしかに知識ちしき霊的れいてき賜物たまものも、かみめぐみによりいただく賜物たまものです。ただ、パウロがかれらにえた土台どだいはキリストであり、かれらはこれによってってきたのでありました。
パウロは自分じぶんも受けて伝えた、キリストの復活ふっかつ顕現けんげんとを確認かくにんします。これがわたくしたちにとってらせ(福音ふくいん)であるのは、最後さいごのものでなくなったからです。わたくしたちはまぬかれません。しかしかみは、こちらがわおもいもしなかったみちをそこにひらき、わたくしたちのよろこびをえたよろこびをあらわした。わたくしたちのえるかぎりのものをやぶり、つくぬし眼差まなざしへとわたくしたちをかす、このかみこえとどけられたのです。