2017年4月16日日曜日

「キリストの復活に続いて」マタイによる福音書28:16-20

(しゅ)イエスは、弟子(でし)たちに指示(しじ)しておいたガリラヤの(やま)で、復活(ふっかつ)させられたご自身(じしん)十一(じゅういち)(にん)(あら)わし、(めい)じました。「すべての(たみ)をわたしの弟子(でし)にしなさい」。ですが、「弟子(でし)にしなさい」と(めい)じられたこの十一(じゅういち)(にん)こそ、そうしていただく必要(ひつよう)がありました。(しゅ)イエスが()らえられたとき、弟子(でし)たちは(みな)(しゅ)イエスを見捨(みす)てて()げてしまったからです(26:56)。
(しゅ)イエスを裏切(うらぎ)り、しかしそれで()てる(ところ)もありませんでした。ですが、(だれ)にも()わせる(かお)()たない弟子(でし)たちを、(しゅ)イエスは見捨(みす)てずなお()()れます。この(かた)がインマヌエル「(かみ)我々(われわれ)(とも)にいます」お(かた)だからです。死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させられた(しゅ)イエスは、ご自身(じしん)(つづ)弟子(でし)として、この十一(じゅういち)(にん)(あら)たに()()がらせます。弟子(でし)たちは(しゅ)イエスの言葉(ことば)(したが)い、すべての(たみ)をインマヌエルの現実(げんじつ)(あずか)らせるため、(かみ)(くに)のご支配(しはい)()(つた)える(あゆ)みを(あら)(はじ)めます。
しゅイエスの復活ふっかつは、弟子でしたちが絶望ぜつぼうからがらされた出来事できごとですから、それ自体じたい弟子でしたちにとってなお信頼しんらいるかどうかが深刻しんこくいとなります。うたがかかえつつ、しかしこの一点いってんにおいて、弟子でしたちはなおがらされます。それは絶望ぜつぼうなかからそとへとされる出来事できごととなりました。なにもかもうしなった弟子でしたちにとり、そのかみくにのご支配しはいたされるはじまりとなったのです。
「わたしは(てん)()一切(いっさい)権能(けんのう)(さず)かっている」と(しゅ)イエスは()います。弟子(でし)たちにとってこれは、自分(じぶん)(かみ)(まえ)になおこれから()一切(いっさい)根拠(こんきょ)を、(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)()くことに(ほか)なりません。その弟子(でし)たちの(あゆ)みを、復活(ふっかつ)(しゅ)(はじ)めさせてくださいました。(しゅ)は、(うたが)いを(かか)えるわたくしたちをもこの()らせの(まえ)(みちび)き、「(かみ)我々(われわれ)(とも)にいます」現実(げんじつ)(あずか)らせてくださいます。(しゅ)イエス・キリストの復活(ふっかつ)(つづ)き、(かみ)(くに)のご支配(しはい)()ちる弟子(でし)として、わたくしたちを(あら)たに()()がらせてくださるのです。