2018年11月25日日曜日

「神の御心に適った悲しみ」コリントの信徒への手紙二 7:2-16

パウロは、あらためについてかたります。「かみ御心みこころかなったかなしみは、されることのないすくいにつうじるあらためをしょうじさせ、かなしみはをもたらします」。パウロは「かみ御心みこころかなったかなしみ」と、「かなしみ」とをけてかたります。そしてだれもがかなしみにとどまらず、かみかなしみをかみからり、このわたしをすくかみただしさに平伏ひれふすようもとめます。
いわば、「かみ御心みこころかなったかなしみ」とは、かみいつくしみにすべてをかけることにあります。これは、わたしをなおいつくしむかみへの、たゆまぬ信頼しんらいです。そのはじまりは、自分じぶん感情かんじょうにではなく、なおこのわたしをいつくしむかみこえくことにあります。そしてわたくしたちにとって本当ほんとう必要ひつようなのは、さい最後さいご自分じぶんれられている、という認識にんしきではないでしょうか。みじめにくすほかない自分じぶんがいる。その自分じぶんが、どういうわけだかわからないけれど、ついにれられている。
「おまえい。おまえはここにいろ。おまえはわたしのものだ」。そうってくださる、わたしをすくかみこえを、わたくしたちはもとめます。そしてつくぬしなるかみさまは、十字架じゅうじかにつけられてんだしゅイエスをから復活ふっかつさせることで、いのちみなもとからのこえひびかせてくださいました。かみさま、このしゅイエスの復活ふっかつあずか洗礼せんれいさずけ、わたくしたちにもこのこえひびかせてくださいます。「これはわたしのあいする、わたしのこころかなもの」と。
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わたしをれ、このがらすつくぬしこえかせるため、主イエスはわたくしたちを礼拝れいはいまねつづけます。わたくしたちは、わたしをすくかみ言葉ことばげられ、らされ、そこにかおげさせてもらうことが必要ひつようです。それは、最後さいご最後さいご、このこえのもとに、わたくしたちはがらされ、いのちるからです。たとえにあって、どこまでもおわわりなくめられても、しかしかみはそうではない。そして最後さいごには、かみすくいの言葉ことばが、わたくしたちをかすのです。

2018年11月18日日曜日

「留まって聞く神の言葉」エレミヤ書 2

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しゅはご自身じしんとご自身じしんたみとの関係かんけいを、結婚けっこんした夫婦ふうふになぞらえて確認かくにんします。「わたしは、あなたのわかいときの真心まごころ花嫁はなよめのときのあい種蒔たねまかれぬでの従順じゅうじゅんおもこす。イスラエルはしゅにささげられたもの、収穫しゅうかく初穂はつほであった。」しゅ親密しんみつであったそのあゆみをおもこします。それは、しゅがその姿勢しせいをなおたもち、このたみけ、かかわってゆくからです。
ところがこのたみは、自分じぶんたちをエジプトの奴隷どれいいえからみちびしたこの御方おかたて、かみではないものとえてしまった。しゅいます。「かれらはむなしいもののあとい、むなしいものとなってしまった」。このたみにとって「けるみずみなもとであるわたしをてて」しまった。たみみずをためる水溜みずためをべつる。ですが、しゅによるとそれは「みずをためることのできない、こわれた水溜みずため」でしかない。そこにはけるみずむこともためることもできないのです。
たみ預言者よげんしゃつるぎ餌食えじきとし、しゅかた言葉ことばかない。しかししゅはなお、このたみけます。しゅはこのたみけるみずみなもとであり、このたみ旅路たびじをなおみちび万軍まんぐんしゅ、このたみ栄光えいこうなのです。そしてついにしゅは、んだものこし、からいのちつくつくぬしとしての言葉ことばを、十字架じゅうじか処刑しょけいされた御子みこイエスをから復活ふっかつさせて、ひびかせてくださいました。いましゅは、このけのまえにわたくしたちをまねき、かみたみ一員いちいんとしてむかえ、さらなるものへとかおけてゆかれます。
このしゅは、わたくしたちをこれまでのあゆみ、しゅのものではないあゆみからみちびすばかりではありません。けるみずみなもとであるしゅらぬあゆみからみちびして、それでほうってかれるのではありません。なおわたくしたちのゆくべきみち先立さきだってゆかれるのであり、わたくしたちにかたけ、みちびいてくださいます。教会きょうかいは、このしゅあとしたがい、なおけるみずみなもととしてけるかみ言葉ことばとどまってき、このみなもとからみずむのです。