2017年4月2日日曜日

「なにものにも勝る福音」マタイによる福音書24:1-14

主(しゅ)イエスが神殿(しんでん)の崩壊(ほうかい)を予告(よこく)したとき、弟子(でし)たちは、そんなことが起(お)きたら世(よ)の終(お)わりだ、と思(おも)いました。しかし主(しゅ)イエスは言(い)います。「これらすべての物(もの)を見(み)ないのか。はっきり言(い)っておく。一(ひと)つの石(いし)もここで崩されずに他(ほか)の石(いし)の上(うえ)に残(のこ)ることはない」。人(ひと)の目(め)に永遠(えいえん)不滅(ふめつ)と見(み)えた神殿(しんでん)が崩(くず)されても、神(かみ)さまはキリストによってわたくしたちを立(た)たせてくださいます。
神(かみ)が共(とも)におられるのに、なぜこんな苦(くる)しみがあるのか。そう問(と)うことがあります。戦争(せんそう)、飢饉(ききん)、地震(じしん)。神(かみ)が共(とも)におられるのなら、なぜこんなことが起(お)こるのか。わたくしたちも揺(ゆ)さぶられかねません。しかし主(しゅ)イエスは言(い)います。「そういうことは起(お)こるに決(き)まっているが、まだ世(よ)の終(お)わりではない」。これらはすべて産(う)みの苦(くる)しみの始(はじ)まりだ、と。人(ひと)の目(め)に「もうおしまいだ」と見(み)えてもこの先(さき)になおも主(しゅ)イエス・キリストによる神(かみ)の支配(しはい)がある。そこになお、主(しゅ)は立(た)たせるのです。
主(しゅ)イエスはさらに言(い)います。「そのとき、あなたがたは苦(くる)しみを受(う)け、殺(ころ)される。また、わたしの名(な)のために、あなたがたはあらゆる民(たみ)に憎(にく)まれる。そのとき、多(おお)くの人(ひと)がつまずき、互(たが)いに裏切(うらぎ)り、憎(にく)み合(あ)うようになる。偽(にせ)預言者(よげんしゃ)も大勢(おおぜい)現(あらわ)れ、多(おお)くの人(ひと)を惑(まど)わす。不法(ふほう)がはびこるので、多(おお)くの人(ひと)の愛(あい)が冷(ひ)える」。どれも、あっては欲(ほ)しくないことです。ただ、これによって、主(しゅ)イエスのもとに立(た)つところを失(うしな)うのではない。「最後(さいご)まで耐(た)え忍(しの)ぶ者(もの)は救(すく)われる」のです。

わたくしたちは、終(お)わってしまう何(なに)かによって立(た)っているのではありません。終(お)わることのない、主(しゅ)イエス・キリストによる神(かみ)の支配(しはい)の上(う)になおも立(た)たされるのです。この神(かみ)の国(くに)の福音(ふくいん)を、神(かみ)さまは十字架(じゅうじか)で死(し)んだ主(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させて響(ひび)かせました。教会(きょうかい)は、他(ほか)の何(なに)ものによるのでなく、すべてに勝(まさ)るこの福音(ふくいん)によって立(た)てられるのであり、すべてに勝(まさ)るこの良(よ)き知(し)らせが全(まっと)うされる日(ひ)に至(いた)るまで、復活(ふっかつ)の主(しゅ)を宣(の)べ伝(つた)えて参(まい)るのです。