主イエスが神殿の崩壊を予告したとき、弟子たちは、そんなことが起きたら世の終わりだ、と思いました。しかし主イエスは言います。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」。人の目に永遠不滅と見えた神殿が崩されても、神さまはキリストによってわたくしたちを立たせてくださいます。
神が共におられるのに、なぜこんな苦しみがあるのか。そう問うことがあります。戦争、飢饉、地震。神が共におられるのなら、なぜこんなことが起こるのか。わたくしたちも揺さぶられかねません。しかし主イエスは言います。「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」。これらはすべて産みの苦しみの始まりだ、と。人の目に「もうおしまいだ」と見えてもこの先になおも主イエス・キリストによる神の支配がある。そこになお、主は立たせるのです。
主イエスはさらに言います。「そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」。どれも、あっては欲しくないことです。ただ、これによって、主イエスのもとに立つところを失うのではない。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」のです。
わたくしたちは、終わってしまう何かによって立っているのではありません。終わることのない、主イエス・キリストによる神の支配の上になおも立たされるのです。この神の国の福音を、神さまは十字架で死んだ主イエスを復活させて響かせました。教会は、他の何ものによるのでなく、すべてに勝るこの福音によって立てられるのであり、すべてに勝るこの良き知らせが全うされる日に至るまで、復活の主を宣べ伝えて参るのです。