2016年3月27日日曜日

「死からの復活に向かって」マタイによる福音書28:1-10

道(みち)を閉(と)ざされた者(もの)に、主(しゅ)は、ご自身(じしん)の復活(ふっかつ)を告(つ)げ知(し)らせる道(みち)を開(ひら)きます。マリアたちは、ただ一(ひと)つの逃(のが)れ場(ば)であった、十字架(じゅうじか)で死(し)んだ主(しゅ)イエスがそこにいるという墓(はか)を失(うしな)いました。墓(はか)には主(しゅ)イエスのご遺体(いたい)はありませんでした。「あの方(かた)は、ここにはおられない」。道(みち)を失(うしな)い、絶望(ぜつぼう)したマリアたちに、主(しゅ)イエスは、ご自身(じしん)の復活(ふっかつ)を告(つ)げ知(し)らせる道(みち)を開(ひら)きます。この道(みち)がわたくしたちにも与(あた)えられています。
天地(てんち)の造(つく)り主(ぬし)なる神(かみ)さまは、十字架(じゅうじか)で死(し)んで葬(ほうむ)られた主(しゅ)イエスを、死(し)者(しゃ)の中(なか)から復活(ふっかつ)させました。この知(し)らせは、造(つく)り主(ぬし)なる神(かみ)さまが死(し)に勝利(しょうり)し、死(し)をこえて、死(し)んだ主(しゅ)イエスと一(ひと)つであることを、神(かみ)さまがわたくしたちに証(あか)しした知(し)らせです。単(たん)に御父(みちち)と御子(みこ)とが一(ひと)つであるだけなら、わたくしたちに知(し)られなくともそうあるはずです。わたくしたちが知(し)らなくとも、神(かみ)さまが主(しゅ)イエスといつも共(とも)におられるという事実(じじつ)は、変(か)わりません。神(かみ)さまは、ご自身(じしん)と御子(みこ)とが一(ひと)つであるとわたくしたちに知(し)ってほしいから、主(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させ、復活(ふっかつ)をわたくしたちに告(つ)げ知(し)らせるのです。
そして、主(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)がわたくしたちへと知(し)らされるからには、神(かみ)さまは死(し)をこえて、わたくしたちと共(とも)におられることをわたくしたちに知(し)ってほしいと望(のぞ)んでいます。
さらには、この神(かみ)我(われ)らと共(とも)にいますというインマヌエルの中身(なかみ)が、主(しゅ)イエスを死(し)から復活(ふっかつ)させた神(かみ)がわたくしたちと共(とも)にいることであるからには、神(かみ)が主(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させたという知(し)らせは、わたくしたちをも死(し)から復活(ふっかつ)させるという、神(かみ)さまからのわたくしたちへの約束(やくそく)であるのです。

つまり主(しゅ)イエスはご自身(じしん)の復活(ふっかつ)をわたくしたちに告(つ)げ知(し)らせ、わたくしたちをも死(し)から復活(ふっかつ)させることを約束(やくそく)します。主(しゅ)の復活(ふっかつ)の知(し)らせは、死(し)をこえて神(かみ)我(われ)らと共(とも)にいますというインマヌエルの約束(やくそく)を、造(つく)り主(ぬし)なる神(かみ)の言葉(ことば)としてわたくしたちへと告(つ)げられているのです。

2016年3月20日日曜日

「喜びの時が来た」マタイによる福音書9:14-17

「新(あたら)しいぶどう酒(しゅ)は、新(あたら)しい革袋(かわぶくろ)に入(い)れるものだ」と主(しゅ)イエスは言(い)います。主(しゅ)イエスによって差(さ)し出(だ)された新(あたら)しい命(いのち)、永遠(えいえん)の命(いのち)は、古(ふる)い革袋(かわぶくろ)には収(おさ)まりません。新(あたら)しい革袋(かわぶくろ)が必要(ひつよう)です。主(しゅ)イエスの命(いのち)にわたくしたちが与(あずか)るからには、主(しゅ)イエスの体(からだ)に連(つら)ねられ、主(しゅ)イエスの体(からだ)となる必要(ひつよう)がある。ただ、わたくしたちの側(がわ)からそのようなふさわしさを満(み)たせません。わたくしたちへと差(さ)し出(だ)す主(しゅ)イエスにすがるのみです。
わたくしたちにとって幸(さいわ)いですのは、断食(だんじき)や禁欲(きんよく)、善(よ)い行(おこな)いによって永遠(えいえん)の命(いのち)を獲得(かくとく)しなければならない、そうふさわしくあらねばならない、という考(かんが)えから、主(しゅ)イエスの側(がわ)では解(と)かれているということです。なおわたくしたちが、自分(じぶん)の側(がわ)ではそうあらねばならない、と思(おも)い込(こ)んでいたとしても、です。そしてわたくしたちの側(がわ)でも、主(しゅ)イエスによって解(と)かれる必要(ひつよう)があります。
なぜなら、わたくしたちは、元気(げんき)で思(おも)いのままに断食(だんじき)や禁欲(きんよく)、善(よ)い行(おこな)いを出来(でき)ているうちは、それはそれで自分(じぶん)にとって満足(まんぞく)かもしれませんが、わたくしたちがやがて何(なに)もできなくなった時(とき)、自分(じぶん)でふさわしさを得(え)ることはいよいよできなくなるからです。誰(だれ)かがわたしの代(か)わりにやってくれるでしょうか。誰(だれ)かがやってくれたとして、それで十分(じゅうぶん)、ふさわしさを満(み)たすのでしょうか。
永遠(えいえん)の命(いのち)は、神(かみ)さまが与えるものです。わたくしたちが努力(どりょく)して獲得(かくとく)するものではありません。今(いま)ある命(いのち)を神(かみ)さまから無償(むしょう)で頂(いただ)いたように、永遠(えいえん)の命(いのち)も、無償(むしょう)でわたくしたちはいただく他(ほか)ありません。すると、そのふさわしさは、わたくしたちの側(がわ)ではなく、命(いのち)の造(つく)り主(ぬし)なる神(かみ)さまの側(がわ)にあります。神(かみ)さまは十字架(じゅうじか)で死(し)んだ主(しゅ)イエスを死者(ししゃ)の中(なか)から復活(ふっかつ)させ、神(かみ)さまがわたくしたちにこの命(いのち)を差(さ)し出(だ)しておられる、ということを証(あか)ししました。今(いま)はこの神(かみ)の思(おも)いがわたくしたちに満(み)ちる喜(よろこ)びの時(とき)であるのです。

2016年3月13日日曜日

「一人も滅びないために」マタイによる福音書9:9-13

わたくしたちは、わたくしたちの命(いのち)を誕生(たんじょう)させた方(かた)との関係(かんけい)を損(そこ)なったまま、わたしらしく生(い)きられるでしょうか。ここで「わたしらしく」とは、「神(かみ)に造(つく)られたわたしらしく」です。このことは、造(つく)り主(ぬし)なる神(かみ)をたとえ信(しん)じていなかったとしても、自(みずか)らに問(と)わずには済(す)ませられない問題(もんだい)です。わたくしたちは、自分(じぶん)の命(いのち)の造(つく)り主(ぬし)とのあるべき関係(かんけい)へと回復(かいふく)させられ、神(かみ)の前(まえ)に立(た)つわたしとして立(た)つところを得る必(ひつ)要(よう)があります。
なぜならこのわたしは、他(ほか)の誰(だれ)かと置(お)き換(か)え可能(かのう)であるかのようなわたしではないからです。神(かみ)の前(まえ)に他(ほか)ではないあなたと呼(よ)ばれるわたしが生(う)まれました。主(しゅ)イエスはわたくしたちが、あなたでも誰(だれ)でもよいような「あなた」として生(い)きることから、神(かみ)の前(まえ)に立(た)つ「あなた」として生(い)かされるべく、わたくしたちを引(ひ)き出(だ)します。
「わたしが喜(よろこ)ぶのは愛(あい)であっていけにえではなく、神(かみ)を知(し)ることであって焼(や)き尽(つ)くす献(ささ)げ物(もの)ではない(ホセア書6:6)」。神(かみ)は神(かみ)の心(こころ)の通(かよ)ったわたしとの関係(かんけい)を求(もと)めます。それゆえわたしに問(と)います。「あなたは何者(なにもの)なのか」。神(かみ)さまの前(まえ)に、わたしこそわたしである。他(ほか)の何(なん)の飾(かざ)る言葉(ことば)もない、「わたし」として、主(しゅ)イエスによって立(た)つことを、神(かみ)さまは願(ねが)っています。まるで幼子(おさなご)が裸(はだか)のまま着飾(きかざ)ることなく、親(おや)の胸(むね)に抱(いだ)かれるようにして、わたくしたちが造(つく)り主(ぬし)の呼(よ)びかけに顔(かお)を向(む)け、立(た)ち上(あ)がって従(したが)うよう、神(かみ)は求(もと)めます。

神(かみ)さまはこの、造(つく)り主(ぬし)なる神(かみ)さまの慈(いつく)しみを、死(し)を越(こ)えてなおわたくしたちへと及(およ)ぼすご意志(いし)を、十字架(じゅうじか)で死(し)んだ主(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させて明(あき)らかにしました。主(しゅ)イエスは十字(じゅうじ)架(か)で死(し)んだご自身(じしん)を示(しめ)し、ご自身(じしん)の復活を告(つ)げ知(し)らせることをもって、わたくしたちのこの身(み)に仕(つか)える神(かみ)のご意志(いし)を届(とど)けます。神(かみ)さまは死(し)んでなお命(いのち)を与(あた)える慈(いつく)しみをわたくしたちに満(み)たすのです。この神(かみ)のご意志(いし)こそ、神(かみ)の前(まえ)にわたくしたちが立(た)たされるところです。