2016年7月31日日曜日

「栄光は全地を満たす」マタイによる福音書 13:44-52

(しゅ)イエスは(かみ)(くに)をたとえて()います。「(あみ)(みずうみ)()()ろされ、いろいろな(さかな)(あつ)める。(あみ)がいっぱいになると、人々(ひとびと)(きし)()()げ、(すわ)って、()いものは(うつわ)に入れ、(わる)いものは()()てる。()()わりにもそうなる」。
ここで(しゅ)イエスが()いたいのは、わたくしたちが(わる)いものなのか、()いものなのかを()うことではありません。(かみ)(まえ)(ただ)しい(もの)なのか(わる)(もの)なのかを()()けることではない。むしろ、わたくしたちが(かか)えますどうしようもない(あく)絶望(ぜつぼう)を、(かみ)()(やぶ)り、()()ってしまう。(かみ)はわたくしたちを(ただ)しい(もの)()しとされた(もの)として、ご自身(じしん)(まえ)()()がらす()()たらせます。この()わりの()へと(しゅ)イエスはわたくしたちを(みちび)きます。「わたしの()よ」と()びかける(てん)(ちち)がおられ、この(かた)がわたくしたちへの支配(しはい)(まっと)うし、ご自身(じしん)のものとして御前(みまえ)()()がらせてくださるのです。
わたくしたちは、(みずか)らの(うち)にも(そと)にも、どうすることもできない絶望(ぜつぼう)(かか)え、()(いた)(やまい)(かか)えます。この自分(じぶん)をわたくしたちは自分(じぶん)()(やぶ)ることができず、自分(じぶん)()しきものを()()すことができず、むしろそれらの奴隷状態(どれいじょうたい)(おちい)ってしまいます。
しかし、(しゅ)イエスはわたくしたちの絶望(ぜつぼう)()(やぶ)って(あら)たに()かし、希望(きぼう)(みち)(ひら)いてくださいます。もはや(つみ)()(のろ)いも()()て、「まことの、あるべき、わたし」へと(いた)(みち)(しゅ)イエスは(みちび)いてくださるのです。そのため、(かみ)さまは御子(みこ)イエスを十字架(じゅうじか)()から復活(ふっかつ)させました。

それは、(かみ)(くに)のご支配(しはい)()()ちた姿(すがた)でありました。もはや()ぬことのない、()勝利(しょうり)した復活(ふっかつ)(いのち)を、(かみ)さまはわたくしたちに(しめ)してくださいました。(かみ)さまは、()すべきわたくしたちを、()()えて御前(みまえ)()()がらす、(ほか)にはない(こえ)(ひび)かせてくださったのです。(しゅ)イエス・キリストにあってわたくしたちは、()()える(いのち)(みち)(そな)えられているのです。

2016年7月24日日曜日

「太陽のように輝くため」マタイによる福音書 13:24-43

(はたけ)(むぎ)(あいだ)毒麦(どくむぎ)(あらわ)れたのを()(しもべ)たちは、()()りに()くことを主人(しゅじん)(もう)()ます。しかし主人(しゅじん)()います。「毒麦(どくむぎ)(あつ)めるとき、(むぎ)まで一緒(いっしょ)()くかもしれない。()()れまで、両方(りょうほう)とも(そだ)つままにしておきなさい。()()れの(とき)、『まず毒麦(どくむぎ)(あつ)め、()くために(たば)にし、(むぎ)(ほう)(あつ)めて(くら)に入れなさい』と、()()(もの)()いつけよう」。
わたくしたちは()(いた)(やまい)(わずら)うことがあります。病巣(びょうそう)自分(じぶん)(からだ)(じゅう)(ひろ)がり、病巣(びょうそう)()(のぞ)くとすれば、それにより(いのち)をも()ちかねない、深刻(しんこく)(やまい)(わずら)うことがあります。つまり、わたくしたちは、病気(びょうき)などなくて()ませられるのならそうしたいのですが、その病巣(びょうそう)がわたくしたちの(いのち)左右(さゆう)するところにまで(およ)んでいるため、もはや()(のぞ)けない、ということがあります。そのような同胞(はらから)(まえ)にして、わたくしたちは立ちすくんでしまいます。
たとえこの()(あく)がすべて()(のぞ)かれたとしても、この()存在(そんざい)する、毒麦(どくむぎ)()(のぞ)かれることこそ、わたくしたちには必要(ひつよう)です。

わたくしたちは()ぬことによって(なに)(たん)(くる)しみから()かれ、()()して()わりではありません。十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを(かみ)さまは復活(ふっかつ)させました。この(しゅ)イエスがわたくしたちを(すべ)ての支配(しはい)から()き、()わることのない(よろこ)びへと()()がらせてくださいます。たとえ(くる)しみが(おお)()くしても、それによって()ななくてはならなかったとしても、このわたしと(ちち)なる(かみ)との関係(かんけい)(うしな)われることはありません。(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)はそのことを(あかし)します。(しゅ)イエスは()います。「(ただ)しい人々(ひとびと)はその(ちち)(くに)太陽(たいよう)のように(かがや)く」。(しゅ)イエスはわたくしたち一人(ひとり)ひとりを(てん)(ちち)なる(かみ)さまの(まえ)(かがや)かせてくださいます。(ちち)なる(かみ)はわたくしたちのために希望(きぼう)()えたのであり、御子(みこ)イエスによって(あかし)したこの希望(きぼう)へとむかって、聖霊(せいれい)によって(みちび)いてくださるのです。

2016年7月17日日曜日

「種を蒔く人」マタイによる福音書 13:1-23

つくぬしなるかみさま、てんちちなるかみさまは、つくられたわたくしたちへと御言みことたねきます。このたねに、わたくしたちをかすいのちがあります。このたねがわたくしたちをあらたにまれわらせます。ちちなるかみさまはこのたねを、しゅイエス・キリストをつたえることをとおして、わたくしたちにきます。
一方(いっぽう)(しゅ)イエスはわたくしたちに、(かた)られた言葉(ことば)との関係(かんけい)()います。(ちち)なる(かみ)さまが御子(みこ)イエスを()から(ふっ)(かつ)させたのは、この()らせを()くわたくしたちを、()から復活(ふっかつ)させるためです。御子(みこ)イエスの復活(ふっかつ)は、(ちち)なる(かみ)さまの、わたくしたちへの言葉(ことば)なのです。
また、聖書(せいしょ)言葉(ことば)がわたくしたちに()げられるのは、これによって(いのち)()、わたくしたちが(あら)たに()かされるためにです。聖書(せいしょ)は、自分(じぶん)(かた)られた(かみ)言葉(ことば)として()くことが大切(たいせつ)です。(しゅ)イエスはなお()(つづ)けるようわたくしたちに()います。「(みみ)のある(もの)()きなさい」。
ただ、(かみ)さまはわたくしたちに特別(とくべつ)(とき)用意(ようい)しており、(とき)(あた)えられてこそ、わたくしたちはその(こころ)()るという経験(けいけん)をします。度々(たびたび)()きながらどうも(わか)からなかったことを、ようやく「そうか」と気付(きづ)かされる。そこでわたくしたちも「(とき)(あた)えられた」と()ります。(とき)(あた)えられるまで、(かみ)(こころ)()められているのです。
すでに(とき)()たなら、いよいよ御言(みこと)()()いて(さと)ることを(かさ)ね、この()(とど)けられた(かみ)(こころ)をより(ふか)()ることが大切(たいせつ)です。(かみ)さまはわたくしたちのことを一点(いってん)(くも)りもなく()っているのであり、そのわたくしたちをお(すく)いになります。その(かみ)(わざ)がより(あき)らかになることで、わたくしたちも(かみ)との(まじ)わりを(ふか)めさせていただけるのです。そして一点(いってん)(くも)りもなく、(かみ)(こころ)()(もの)として()()がらされる()を、(しゅ)イエスはもたらします。その()には百倍(ひゃくばい)六十倍(ろくじゅうばい)三十倍(さんじゅうばい)()(むす)ぶ。(しゅ)イエスはわたくしたちを礼拝(れいはい)へと()(かえ)(まね)き、この(さいわ)いに(あずか)らせてくださいます。