2017年12月31日日曜日

「あなたがたのための救い主」ルカによる福音書2:8-21

主(しゅ)のみ使(つか)いは羊飼(ひつじか)いたちに告(つ)げます。「今日(きょう)ダビデの町(まち)で、あなたがたのために救(すく)い主(ぬし)がお生(う)まれになった。この方(かた)こそ主(しゅ)メシアである」。み使(つか)いの知(し)らせは羊飼(ひつじか)いたちにとって驚(おどろ)きでしたが、見(み)に行(い)ってベツレヘムの町(まち)で乳飲(ちの)み子(ご)を探(さが)し当(あ)てた時(とき)、語(かた)られた言葉(ことば)がその通(とお)り実現(じつげん)したのを羊飼(ひつじか)いたちは知(し)ります。乳飲(ちの)み子(ご)は布(ぬの)にくるまって飼(か)い葉(ば)桶(おけ)に寝(ね)ていました。
羊飼(ひつじか)いたちが信(しん)じたのは、主(しゅ)が知(し)らせてくれたことは実現(じつげん)する、ということです。造(つく)り主(ぬし)なる神(かみ)さまはご自身(じしん)の思(おも)いを言葉(ことば)にし、語(かた)った言葉(ことば)を実現(じつげん)します。神(かみ)さまはわたくしたちを愛(あい)し、わたくしたちを滅(ほろ)びからお救(すく)いくださいます。その御心(みこころ)を映(うつ)し出(だ)す器(うつわ)として「あなたがたのための救(すく)い主(ぬし)」が誕生(たんじょう)しました。そして、羊飼(ひつじか)いたちにはそれが判(わか)る仕方(しかた)でしるしを与(あた)えられ、彼(かれ)らが到達(とうたつ)しうるところへ届(とど)けられました。実(じつ)にベツレヘムでの誕生(たんじょう)は、彼(かれ)らのためであったのです。
この自分じぶんのため救すくい主ぬしを誕生たんじょうさせた神かみが、やがてその生うまれた乳飲ちのみ子ごによってこの自分じぶんをお救すくいくださる。羊飼ひつじかいたちは漠然ばくぜんとしつつもこの約やく束そくを胸むねに抱いだき、歩あゆみ始はじめます。わたくしたちもそうです。教会きょうかいはみ使つかいと共ともに、実現じつげんする神かみの言葉ことばを告つげ知しらせます。わたしを救すくう神かみがおられるのであり、この神かみがわたしをどこまでも愛あいしておられる。この神かみを知しり出会であうことにより、主しゅが共ともにおられる歩あゆみを始はじめます。わたくしたちはこの約束やくそくを受うけ止とめることから始はじまるのです。
町(まち)の者(もの)たちは、飼(か)い葉(ば)桶(おけ)に寝(ね)る乳飲(ちの)み子(ご)が自分(じぶん)たちの主(しゅ)メシアであると聞(き)いて驚(おどろ)きます。しかし神(かみ)さまはこれを全(すべ)ての民(たみ)に与(あた)えられる大(おお)きな喜(よろこ)びとしてくださいます。神(かみ)さまは、十字架(じゅうじか)で殺(ころ)されたこのイエスを復活(ふっかつ)させ、わたくしたちの主(しゅ)メシアだと宣言(せんげん)してくださいました(使徒言行録2:36)。復活ふっかつの主しゅイエスはやがて来きてそのご支配しはいを全まっとうしてくださいます。教会きょうかいはその日ひを待まち望のぞみつつ、救すくい主ぬしの誕生たんじょうを告つげ知しらせるのです。

2017年12月24日日曜日

「主があなたと共におられる」ルカによる福音書1:26-38

「わたしが神(かみ)を信(しん)じる」ということは、換言(かんげん)すれば、わたしが神(かみ)を信(しん)じるという道(みち)を神(かみ)が与(あた)えたと認(みと)め、この道(みち)をわたしに与えた神(かみ)の言葉(ことば)に繰(く)り返(かえ)し聴(き)きつつ、この身(み)に始(はじ)まったキリストのご支配(しはい)が全(まっと)うされる日(ひ)を待(ま)ち望(のぞ)むことです(道・真理・命、ヨハネ14:6)。わたしが神(かみ)を信(しん)じなければならないその理由(りゆう)は、この道(みち)をお与(あた)えになった神(かみ)から聴(き)かねばなりません。
マリアは、少(すこ)しも望(のぞ)んだことではありませんでしたが、自分(じぶん)が身(み)ごもって救(すく)い主(ぬし)イエス・キリストを産(う)む、とみ使(つか)いから聞(き)きます。神(かみ)さまはマリアに神(かみ)の子(こ)イエスを宿(やど)します。宿(やど)した母(はは)としての歩(あゆ)みが始(はじ)まります。なぜ自分(じぶん)に宿(やど)されたのか。その理由(りゆう)は、ヨセフに聞(き)いても父母(ちちはは)に聞(き)いても確(たし)かではありません。宿(やど)らせた神(かみ)から聴(き)かねばなりません。「お言葉(ことば)どおり、この身(み)に成(な)りますように」と口(くち)にしたマリアは、繰(く)り返(かえ)し、この身(み)に神(かみ)が語(かた)った言葉(ことば)に耳(みみ)を傾(かたむ)けます。
語(かた)られた神(かみ)の言葉(ことば)に聴(き)く歩(あゆ)みは、神(かみ)の子(こ)イエスを産(う)んだ後(のち)も続(つづ)き、事(こと)あるごとに問(と)い直(なお)させられます。この息子(むすこ)が十字架(じゅうじか)で死(し)なねばならなかった時(とき)も、復活(ふっかつ)させられ天(てん)に上(あ)げられた時(とき)も。そして、聖霊(せいれい)が降(くだ)り、いと高(たか)き方(かた)の力(ちから)に覆(おお)われた時(とき)(24:49、使徒言行録2:4)、ようやく知(し)りました。この子(こ)が神(かみ)の子(こ)であり主(しゅ)メシア・キリストであると。何(なに)かマリアだけが弟子(でし)たちより先(さき)に知(し)ったわけではありません。どの時(とき)も、神(かみ)が語(かた)った言葉(ことば)から改(あらた)めて受(う)け取(と)ることを求(もと)められました。
神(かみ)さまはわたくしたちに、神(かみ)を信(しん)じる道(みち)を与(あた)え、この道(みち)を主(しゅ)イエス・キリストが共(とも)に歩(あゆ)んでくださいます。神(かみ)さまが与(あた)える道(みち)は、死(し)を越(こ)えてこの身(み)を生(い)かす永遠(えいえん)の命(いのち)の道(みち)です。復活(ふっかつ)の主(しゅ)イエス・キリストがわたくしたちに伴(ともな)ってくださり、そのご支配(しはい)をこの身(み)に全(まっと)うしてくださいます。神(かみ)さまは十字架(じゅうじか)で死(し)んだ主イエスを復活(ふっかつ)させ、この身(み)に成(な)る神(かみ)の言葉(ことば)を語(かた)ってくださいました。この言葉(ことば)に繰(く)り返(変え)し聴(き)く礼拝(れいはい)こそ、わたくしたちの土台(どだい)です。

2017年12月10日日曜日

「あなたに目を留める神」ルカによる福音書1:5-15

身(み)ごもったエリサベトは言(い)います、「主(しゅ)は今(いま)こそ、こうして、わたしに目(め)を留(と)め、人々(ひとびと)の間(あいだ)からわたしの恥(はじ)を取(と)り去(さ)ってくださいました」。子(こ)が与(あた)えられることは彼女(かのじょ)の念願(ねんがん)でした。ですが主(しゅ)は、これまで彼女(かのじょ)に目(め)を留(と)めて来(こ)なかったのでしょうか。夫(おっと)ザカリアにも主(しゅ)のみ使(つか)いは言(い)います、「あなたの願(ねが)いは聞(き)き入(い)れられた」と。主(しゅ)はそれまで聞(き)いておられなかったのか。
主(しゅ)は、二人(ふたり)に目(め)を留(と)め、願(ねが)いを聞(き)いておられました。そして、主(しゅ)こそが見(み)ている現実(げんじつ)が二人(ふたり)に実現(じつげん)する日(ひ)を待(ま)ち望(のぞ)んできたのです。ですから主(しゅ)のみ使(つか)いはザカリアに言(い)います。「時(とき)が来(く)れば実現(じつげん)するわたしの言葉(ことば)を信(しん)じなかった」。ザカリアは口(くち)が利(き)けなくされます。しかし男(おとこ)の子(こ)が誕生(たんじょう)し、命(めい)じられた通(とお)り「ヨハネ」と名付(なづ)けた時(とき)、ザカリアの口(くち)は開(ひら)かれました。主(しゅ)はわたくしたちに目(め)を留(と)め、あらかじめ見(み)ている現実(げんじつ)が、この身(み)に実現(じつげん)する日(ひ)を待(ま)ち望(のぞ)んでおられます。
主(しゅ)は、わたくしたちの思(おも)いを打(う)ち破(やぶ)る仕方(しかた)で、ご自身(じしん)が神(かみ)であることを示(しめ)します。わたくしたちの思(おも)いを打(う)ち破(やぶ)り、ご自身(じしん)があらかじめ見(み)ている現実(げんじつ)をわたくしたちへと実現(じつげん)させます。主(しゅ)は、その目(め)に留(と)めているのが何(なん)であるのか、十字架(じゅうじか)で死(し)んだ御子(みこ)イエスを復活(ふっかつ)させることで示(しめ)してくださいました。「死(し)んだらおしまい」というわたくしたちの思(おも)いを、主(しゅ)は打(う)ち破(やぶ)ってしまったのです。今(いま)や主(しゅ)はご自身(じしん)の見(み)ていることを実現(じつげん)します。主(しゅ)はわたくしたちの死(し)に勝利(しょうり)してくださいます。
その日(ひ)が来(く)ることを、主(しゅ)こそが待(ま)ち望(のぞ)んでいます。わたくしたちは、「神(かみ)がいるならなぜわたしに目(め)を留(と)めてくれないのか」と嘆(なげ)くことがあります。しかし主(しゅ)はわたくしたちに目(め)を留(と)めており、主(しゅ)が見(み)ている現実(げんじつ)が実現(じつげん)する日(ひ)を待(ま)ち望(のぞ)んでいます。わたくしたちを最後(さいご)に支配(しはい)するのは神(かみ)の勝利(しょうり)です。わたくしたちはこの主(しゅ)を礼拝(れいはい)し告白(こくはく)しつつ、この勝利(しょうり)をわたくしたちに満(み)たす主(しゅ)イエス・キリストが来(こ)られる日(ひ)を、主(しゅ)と共(とも)に待(ま)ち望(のぞ)んで参(まい)るのです。