2016年11月27日日曜日

「創造主から頂く祝福」マタイによる福音書19:1-12

創造主(そうぞうしゅ)(はじ)めから(ひと)(おとこ)(おんな)とにお(つく)りになった。それゆえ、(ひと)父母(ふぼ)(はな)れてその(つま)(むす)ばれ、二人は一体(いったい)となる。だから、二人(ふたり)はもはや別々(べつべつ)ではなく、一体(いったい)である。(したが)って、(かみ)(むす)()わせてくださったものを、(ひと)(はな)してはならない」。(しゅ)イエスは結婚(けっこん)祝福(しゅくふく)する一方(いっぽう)、「(てん)(くに)のために結婚(けっこん)しない(もの)もいる」と()います。
自分(じぶん)がそうだとは、自分(じぶん)(かみ)から()くほかありません。むしろいずれも、永遠(えいえん)(いのち)()かす(かみ)祝福(しゅくふく)(あずか)るよう、(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)へと(すす)みます。
この十字架(じゅうじか)への(みち)は、(しゅ)イエスがなお(てん)(ちち)(むす)ばれた(かみ)()であるかを()われる、(さば)きの(みち)です。人々(ひとびと)十字架(じゅうじか)(しゅ)イエスを(こころ)みます。「(かみ)()なら、自分(じぶん)(すく)ってみろ。そして(じゅう)字架(じか)から()りて()い」。人々(ひとびと)(しゅ)イエスを(かみ)から()(はな)そうとするのです。その(こころ)みは、(しゅ)イエスが十字架(じゅうじか)()んだことで、人々(ひとびと)思惑(おもわく)(どお)りとなったと()ることができます。


しかしこの(かた)が、死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させられました。(かみ)さまはこの復活(ふっかつ)を通し、(てん)(ちち)であるご自身(じしん)御子(みこ)イエスと一体(いったい)不可分(ふかぶん)であり、十字架(じゅうじか)()をもってすら()(はな)されえないものであることを、(あかし)したのです。
この、()()えて(むす)ばれた(かみ)との(いのち)(まじ)わり、()さえも()()れない(かみ)との(まじ)わりに、わたくしたちが(あずか)るべく、(しゅ)イエスはご自身(じしん)復活(ふっかつ)をわたくしたちに()()らせます。(しゅ)イエスはわたくしたちにも(てん)(くに)(とびら)(ひら)き、ご自身(じしん)御父(みちち)御子(みこ)との一体(いったい)(まじ)わりに(あずか)らせてくださるのです。

この(かみ)との関係(かんけい)は、人間(にんげん)知恵(ちえ)(ちから)(はたら)きによっては、(むす)ばれることはありません。(かみ)(むす)んだものです。「(かみ)(むす)()わせてくださったものを、(ひと)(はな)してはならない」。(ひと)によって(むす)ばれえないものを、(ひと)(はな)すことはできません。この眼差(まなざ)しをもって、主イエスは十字架(じゅうじか)へと(すす)んで()きます。そこで(かた)られる(かみ)言葉(ことば)()くため、(しゅ)イエスはわたくしたちを(ともな)ってこの(みち)(すす)みます。

2016年11月20日日曜日

「我らの罪をも赦したまえ」マタイによる福音書18:21-35

わたくしたちが(かみ)(しん)じるということは、この(かみ)へと()かって()きることが(ともな)います。(かみ)さまはわたくしたちをご自身(じしん)のもの、ご自分(じぶん)(つか)える(しもべ)としてくださり、わたくしたちをこの主人(しゅじん)のもとに()かしてくださいます。わたくしたちの()()んで(しもべ)とし、ご自身(じしん)(まえ)()たせてくださるのです。
自分(じぶん)自分(じぶん)主人(しゅじん)であることは、(いっ)(けん)わたくしたちに都合(つごう)()いことですが、自分(じぶん)()()えない事態(じたい)()うと、お手上(てあ)げとなります。()()えない(やまい)人間関係(にんげんかんけい)(おお)きな(やぶ)れ、自分(じぶん)との関係(かんけい)(やぶ)れ、そこで直面(ちょくめん)する絶望(ぜつぼう)()を、わたくしたちは自力(じりき)()えることができません。そしてまことに()(ふん)主人(しゅじん)であろうとするなら、()えられない責任(せきにん)をも()うことになります。しかしその責任(せきにん)をわたくしたちは()たせないのではないでしょうか。わたくしたちは自分(じぶん)自分(じぶん)主人(しゅじん)であることから、自分(じぶん)()くことはできないのです。そこにわたくしたちの限界げんかいがあります。
()()くすわたくしたちをなお(いつく)しみ、ご自身(じしん)のものとして(あら)たに()かす(かみ)がおられます。自分(じぶん)破綻(はたん)したわたくしたちを、なお(しもべ)として()()主人(しゅじん)がおられるのです。わたくしたちの(つく)(ぬし)なる(かみ)さまは、わたくしたちをご自分(じぶん)(しもべ)としてご自身(じしん)(まえ)()たせてくださいます。その(かみ)さまの、(こころ)からの(おも)いを、(かみ)さまは十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを死者(ししゃ)(なか)から(ふっ)(かつ)させて(あかし)してくださいました。
復活(ふっかつ)出来事(できごと)(とお)して(かみ)さまは、わたくしたちの(いのち)責任(せきにん)()うと宣言(せんげん)し、「あなたはわたしのものだ」と一人ひとりに()っておられます。(かみ)さまはご自身(じしん)(つか)える(しもべ)として、わたくしたちを(あら)たに()かすのです。(かみ)のものとされたわたくしたちは、(こころ)()くしてわたくしたちに(つか)える(かみ)を知り、この(かた)(したが)います。()から復活(ふっかつ)させられた(しゅ)イエスの(あと)(つづ)き、(かみ)御前(みまえ)()()がらされ、永遠(えいえん)(いのち)希望(きぼう)へとつながれて()きるのです。

2016年11月13日日曜日

「天の命へと向かって」マタイによる福音書18:15-20

(しゅ)イエスは()います。「どんな(ねが)(ごと)であれ、あなたがたのうち二人(ふたり)()(じょう)(こころ)(ひと)つにして(もと)めるなら、わたしの(てん)(ちち)はそれをかなえてくださる。二人(ふたり)または三人(さんにん)がわたしの()によって(あつ)まるところには、わたしもその(なか)にいるのである」。(しゅ)イエスは「(もと)めるなら」と()い、「(いの)れ」とも「(もと)めよ」とも()いません。わたくしたちは(もと)めるのか。(しゅ)イエスに()われます。
わたくしたちが(こころ)にかける兄弟(きょうだい)が、まことに(てん)(いのち)へと()かうよう(もと)め「(てん)(ちち)よ」と(いの)る。これは(しゅ)イエスの(ささ)えがあってこそです。(いの)(もの)自身(じしん)、「(しゅ)がこのわたしを(しゅ)のものとしてくださった」と確信(かくしん)()てのことです。そして「(しゅ)イエスがわたしさえも(つみ)から(すく)うのだから、あの兄弟(きょうだい)をも、(しゅ)イエスが(かみ)のものとしてくださる」と(いの)ります。その(いの)りに、(しゅ)イエスが(とも)にいます。(しゅ)イエスこそが、(まよ)()一匹(いっぴき)(ひつじ)最後(さいご)まで(あきら)めず、(かみ)のものとしてくださいます。


(じつ)に、一人(ひとり)ひとりが(しゅ)(やしな)われる(かみ)(たみ)一員(いちいん)として(むか)えられる背後(はいご)に、この教会(きょうかい)(いの)りがあります。一人(ひとり)ひとりが(ひそ)やかなとりなしのもと礼拝(れいはい)(みちび)かれます。そして「(しゅ)がこの一人(ひとり)見出(みいだ)した」と証言(しょうげん)する二人(ふたり)または三人(さんにん)(くち)によって、洗礼(せんれい)()けるよう(すす)められ、教会(きょうかい)によって(かみ)()として洗礼(せんれい)()けます。わたくしたちが(しゅ)(たみ)として(あゆ)むのは、自分(じぶん)のために(いの)兄弟(きょうだい)がいるからです。(しゅ)イエスはご自身(じしん)()によって(あつ)められたその(もの)たちの(なか)にいると()います。

この(かた)()勝利(しょうり)した(かた)です。十字(じゅうじ)()()んだこのお(かた)を、(かみ)さまは見放(みはな)しませんでした。(かみ)さまはこの(かた)復活(ふっかつ)させ、この復活(ふっかつ)において(かみ)さまは、ご自分(じぶん)(たみ)(つみ)から(すく)うというご意志(いし)をあらわしました。この(かみ)(おも)い、(しゅ)イエスの()によって(あつ)められたわたくしたちを(かみ)から()(はな)すものは、何一(なにひと)つない。この約束(やくそく)のもと、(しゅ)イエスはわたくしたちを(みちび)き、(かみ)礼拝(れいはい)する(たみ)として(てん)(いのち)へと()かって(やしな)ってくださるのです。