2017年1月29日日曜日

「神の家は祈りの家」マタイによる福音書21:12-17

主(しゅ)イエスは神殿(しんでん)の境内(けいだい)に入(はい)ると、そこで売(う)り買(か)いをしていた人々(ひとびと)を皆(みな)追(お)い出(だ)して言(い)いました。「わたしの家(いえ)は、祈(いの)りの家(いえ)と呼(よ)ばれるべきである。ところが、あなたたちはそれを強盗(ごうとう)の巣(す)にしている」。神(かみ)さまを礼拝(れいはい)する神殿(しんでん)が強盗(ごうとう)の巣(す)であるなら、わたくしたちはそこへ行(い)くのに剣(つるぎ)や棒(ぼう)を持(も)って警戒(けいかい)しなければなりません。安心(あんしん)して神(かみ)さまに祈(いの)るのも妨(さまた)げられてしまいます。
主(しゅ)イエスはこの妨(さまた)げを取(と)り去(さ)ってゆきます。神(かみ)へと向(む)かうべき祈(いの)りが妨(さまた)げられないよう、わたくしたちを整(ととの)えてくださるのです。わたくしたちが真心(まごころ)から神(かみ)を礼拝(れいはい)するため、主(しゅ)イエスはわたくしたちのところにまでやって来られました。この主(しゅ)イエスはわたくしたちが献(ささ)げる礼拝(れいはい)も「祈(いの)りの家(いえ)と呼(よ)ばれるべきである」とご覧(らん)です。キリストの教会(きょうかい)は神(かみ)を礼拝(れいはい)するためにあります。主(しゅ)イエスは、誰(だれ)もが何(なん)の妨(さまた)げもなく神(かみ)を礼拝(れいはい)するところとして、教会(きょうかい)を建(た)て上げてゆきます。
教会(きょうかい)で祈(いの)るのは誰(だれ)か人(ひと)に見(み)てもらうためではありません。祈(いの)りは神(かみ)へと向(むか)かう、天(てん)の父(ちち)への叫(さけ)びです。礼拝(れいはい)ではこの叫(さけ)びを、賛美(さんび)と祈(いの)りと告白(こくはく)の言葉(ことば)によって共(とも)に献(ささ)げます。そこではわたくしたち自(じ)身(しん)が生(い)ける神(かみ)の家(いえ)、祈(いの)りの家(いえ)となる必(ひつ)要(よう)があります。わたくしたちも主(しゅ)イエスによって、妨(さまた)げを取(と)り去(さ)ってもらわねばなりません。このため主(しゅ)イエスは、ご自身(じしん)の十字架(じゅうじか)の死(し)と死(し)からの復活(ふっかつ)を告(つ)げ知(し)らせ、わたくしたちの叫(さけ)びを聞(き)く天(てん)の父(ちち)が確(たし)かにおられることを証(あかし)します。

不確(ふたし)かな世(よ)にあって、死(し)よりも確(たし)かな造(つく)り主(ぬし)の御意思(ごいし)として、父(ちち)なる神(かみ)さまは御子(みこ)イエスを死者(ししゃ)の中(なか)から復活(ふっかつ)させてくださいました。この御意志(ごいし)のもと、わたくしたちをも御子(みこ)の後(あと)に新(あら)たに生(い)かすため、御子(みこ)はご自身(じしん)の復活(ふっかつ)を証(あかし)し、聖霊(せいれい)を注(そそ)いでくださいます。わたくしたちはこの約束(やくそく)の前(まえ)に、安心(あんしん)して叫(さけ)んでよいのです。確(たし)かな信頼(しんらい)を置(お)いて、祈(いの)ることができるのです。父(ちち)なる神(かみ)さまはこの礼拝(れいはい)へとわたくしたちの名(な)を呼(よ)んで招(まね)いておられます。

2017年1月22日日曜日

「ろばに乗ってきた王」マタイによる福音書21:1-11

主(しゅ)イエスとその一行(いっこう)が都(みやこ)エルサレムに近(ちか)づきました。主(しゅ)イエスは二人(ふたり)の弟子(でし)をベトファゲという村(むら)につかわして、めろばと子(こ)ろばを引(ひ)いて来(こ)させます。ご自身(じしん)がその上(うえ)に乗(の)るためにです。弟子(でし)たちは主(しゅ)イエスに命(めい)じられた通(とお)りにします。そしてつないであっためろばと子(こ)ろばを引(ひ)いて来(き)て、上着(うわぎ)をかけました。主(しゅ)イエスはその上(うえ)に乗(の)って、都(みやこ)エルサレムに入(はい)ってゆきます。
大勢(おおぜい)の群衆(ぐんしゅう)が主(しゅ)イエスの前(まえ)にも後(あと)にも続(つづ)きました。群衆(ぐんしゅう)は、自分(じぶん)の上着(うわぎ)を道(みち)に敷(し)いたり、木(き)に登(のぼ)り枝(えだ)を切(き)って、その枝(えだ)を道(みち)に敷(し)いたりしました。そこを主(しゅ)イエスに通(とお)ってもらうためにです。まるで王(おう)さまが行進(こうしん)し都(みやこ)を凱旋(がいせん)するようです。群衆(ぐんしゅう)は、まるで新(あたら)しい王(おう)さまが即位(そくい)するのを喜(よろこ)ぶように、主(しゅ)イエスの入城(にゅうじょう)を喜(よろこ)び、「ホサナ」とたたえました。「どうか主(しゅ)よ、わたしたちに救(すく)いを(詩編118:25)」と叫(さけ)び、主(しゅ)イエスを救(すく)い主(ぬし)としてお迎(むか)えしたのです。
群衆(ぐんしゅう)は大喜(おおよろこ)びして主(しゅ)イエスをエルサレムに迎(むか)えます。しかしこの群衆(ぐんしゅう)が五日(いつか)後(のち)に主(しゅ)イエスを捕(とら)え(26:55)、「十字架(じゅうじか)につけろ」と叫(さけ)びます(27:23)。主(しゅ)イエスをたたえる群衆(ぐんしゅう)の態度(たいど)は嘲(あざけ)りへと変(か)わります。それは、自分(じぶん)たちの期待(きたい)した主(しゅ)イエスが、自分(じぶん)たちの思(おも)い描(えが)く救(すく)い主(ぬし)ではなかったからです。主(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)につけられ、死(し)んでゆかれます。

けれどもマタイによる福音書(ふくいんしょ)はこれがゼカリヤ9:9の預言(よげん)の実現(じつげん)だといいます。「見(み)よ、お前(まえ)の王(おう)がお前(まえ)のところにおいでになる。柔和(にゅうわ)な方(かた)で、ろばに乗(の)り、荷(に)を負(お)うろばの子(こ)、子(こ)ろばに乗(の)って」。群衆(ぐんしゅう)は主(しゅ)イエスを歓迎(かんげい)したときも、嘲(あざけ)って見放(みはな)したときも、心(こころ)の目(め)に覆(おお)いがかかったままでした。しかしその彼(かれ)らのところに、たしかに主(しゅ)イエスは来(き)たのです。神(かみ)さまは、この主(しゅ)イエスを十字架(じゅうじか)の死(し)から復活(ふっかつ)させ、この方(かた)がまことの王(おう)、救(すく)い主(ぬし)であることを明(あき)らかにしました。わたくしたちの思(おも)いを打(う)ち破(やぶ)って、わたくしたちをお救(すく)いになる神(かみ)がおられます。

2017年1月8日日曜日

「主の憐れみと慈しみ」マタイによる福音書20:29-34

エリコからエルサレムへと向(む)かう道端(みちばた)に二人(ふたり)の盲人(もうじん)が座(すわ)っていました。二人(ふたり)はそこをイエスがお通(とお)りと聞(き)いて、「主(しゅ)よ、ダビデの子(こ)よ、わたしたちを憐(あわ)れんでください」と叫(さけ)びます。主(しゅ)イエスは立(た)ち止(ど)まり、叫(さけ)びに応(こた)え、その目(め)に触(ふ)れ、見(み)えるようにしました。
主(しゅ)イエスはすでに来(き)てくださいました。わたくしたちは何(なに)も当(あ)てなく叫(さけ)ぶのではありません。主(しゅ)イエスはご自(じ)身(しん)の十字架(じゅうじか)の死(し)と死(し)からの復活(ふっかつ)において、神(かみ)がわたくしたちの死(し)に打(う)ち勝(か)つお方(かた)であることを証(あかし)しました。神(かみ)さまはこの方(かた)を与(あた)えてくださいました。まことの人(ひと)として誕生(たんじょう)し、十字架(じゅうじか)の死(し)においてわたくしたちと同(おな)じ死(し)をその身(み)に遂(と)げてくださった神(かみ)の子(こ)イエス。天地(てんち)の造(つく)り主(ぬし)なる神(かみ)さまは、この御子(みこ)イエスを死者(ししゃ)の中(なか)から復活(ふっかつ)させ、父(ちち)なる神(かみ)としての決(けっ)して変(か)わることのない慈(いつく)しみを、わたくしたちに示(しめ)してくださったのです。
この父(ちち)なる神(かみ)の眼差(まなざ)しの中(なか)に、わたくしたちは置おかれています。神かみさまは「わたしの子こよ」と一人ひとり一人ひとりを呼よんでおられます。暗闇くらやみに住すむわたくしたちに介入かいにゅうし慈いつくしんで止やまない、神かみがおられるのです。この神かみを示しめしてくださった主しゅイエスに向むかって、わたくしたちは叫さけびます。わたくしたちの死しに勝利しょうりした主しゅイエスに向むかって叫さけぶのです。あの二千年前にせんねんまえに来きてくださった復活ふっかつの主しゅイエスが、このわたしに来きてくださるように。神かみがこのわたしの歩あゆみに御手みてを伸のばし介入かいにゅうしてくださいますように、と。

神(かみ)さまは闇(やみ)の中(なか)にあるわたくしたちの叫(さけ)びを聞(き)いておられます。はらわたのよじれるような痛(いた)みを覚(おぼ)え、なんとしてでもわたくしたちを取(と)り戻(もど)そうとしておられます。この神(かみ)の慈(いつく)しみは、わたくしたちの死(し)さえも超(こ)え、わたくしたちへと注(そそ)がれ、届(とど)けられます。わたくしたちを新(あら)たに造(つく)り変(か)えてくださる、神(かみ)がおられます。死(し)んだ者(もの)にさえ造(つく)り主(ぬし)はなお慈(いつく)しみ、ご自身(じしん)と共(とも)にある命(いのち)へとわたくしたちを新(あら)たに生(い)かしてくださるのです。