2018年10月28日日曜日

「新しく創造された者」コリントの信徒への手紙二 5:11-21

「キリストはすべてのひと身代みがわりの犠牲いけにえとして、わたくしたちのつみ十字架じゅうじかんでくださった」。そうおもこすコリントのものたちにたいし、パウロはもうひとつの側面そくめん確認かくにんします。それは、キリストが十字架じゅうじかに、から復活ふっかつさせられたのは、すべてのひと代表だいひょうしてなのだ、ということです。わたくしたちを代表だいひょうしてキリストがに、そして復活ふっかつさせられました。
キリストのたんすべてのひとつみ代理だいりするなのなら、わたくしたちは罪赦つみゆるされてもまた自分じぶんのためにきてしまいかねません。そこでパウロはいます。「すなわち、一人ひとりかたがすべてのひとのためにんでくださった以上いじょう、すべてのひとんだことになります。その一人ひとりかたはすべてのひとのためにんでくださった。その目的もくてきは、きているひとたちが、もはや自分自身じぶんじしんのためにきるのではなく、自分じぶんたちのためにんで復活ふっかつしてくださったかたのためにきることなのです」。
キリストが、ぜんてのひと代表だいひょうとしてんでくださった。だからわたくしたちはまだきているけれど、わたくしたちもすべてのひとんだことになる。キリストはすべてのひと代表だいひょうしてんだからです。その目的もくてきは、まだきているわたくしたちが、もはや自分じぶん自身じしんのためにきるのではなく、わたくしたちの代表だいひょうとしてんで復活ふっかつさせられたキリストのためきることである。そうパウロは強調きょうちょうします。
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代理だいりとしてよりも代表だいひょうとしてのキリストの復活ふっかつ。そこでの強調点きょうちょうてんは、わたくしたちの代表だいひょうとして復活ふっかつさせられたキリストにわたくしたちがしたがうことにあります。もはや自分じぶん自身じしんのためにきるのではない、あたらしく創造そうぞうされたものとしてたせていただく。すべてのさまたげ、へだたりをのぞかれ、ありのままにられたわたしが、えてなおかみかおまえたせていただける。キリストの教会きょうかいにおいてのみくことのできる、つくぬしなるかみからのらせが、わたくしたちのところにまでとどけられてまいりました。

2018年10月21日日曜日

「「内なる人」は日々新たに」コリントの信徒への手紙二 4:16-5:10

「あなたがたはわたしにあくをたくらみましたが、かみはそれをぜんえ、おおくのたみいのちすくうために、今日こんにちのようにしてくださったのです(創世記50:20)」。あにたちにられたヨセフは、かみは、ひとおもいをえて、かみておられる現実げんじつをこの実現じつげんするおかたである、と壮大そうだいかたります。創世記そうせいきは、天地創造てんちそうぞうかみ万事ばんじえきとするかみであるとげ、結末けつまつむかえます。
このかみがわたくしたちにけ、礼拝れいはいへとまねき、祝福しゅくふくみなもとであるかみたみ一員いちいんとして、もちいてくださいます。わたくしたちにはまだえないのですが、しかしかみておられるきところへと、わたくしたち一人ひとりひとりをみちびいてくださいます。パウロはいます。「わたしたちはえるものではなく、えないものにそそぎます。えるものはりますが、えないものは永遠えいえん存続そんぞくするからです」。わたくしたちも、いまだぬ、かみじつげんしている現実げんじつそそぐのです。
かみがわたくしたちにそなえた将来しょうらい。それがきものであることを、かみさまはしゅイエス・キリストを十字架じゅうじかから復活ふっかつさせることであかししてくださいました。くるしみをまぬかれられないわたくしたち。しかしそのわたくしたちがあずかるべき、かみのものとしての姿すがたを、そこにあらわしてくださったのです。十字架じゅうじかくるしみをて、いたったしゅイエス。しかしかみさまはその勝利しょうりし、しゅイエスをご自身じしん御前みまえに、ご自身じしんみぎにつかせ、祝福しゅくふくみなもととしてくださいました。
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かみておられる現実げんじつがわたくしたちのこの実現じつげんするべく、かみさまはわたくしたちにキリストをしゅとするみちあゆませてくださいます。たとえ「そとなるひと」はおとろえても、わたくしたちはかみておられる現実げんじつへとかわせていただきます。このため礼拝れいはいにより、わたくしたちをよろこんでおられるしゅよろこびを、かえしわたくしたちもってゆくのです。「うちなるひと」が日々ひびあらたにされるのを、わたくしたちも確認かくにんさせていただくのです。