2018年9月30日日曜日

「命から命に至らせる香り」コリントの信徒への手紙二 2:12-17

パウロはいます。「かみ感謝かんしゃします。かみは、わたしたちをいつもキリストの勝利しょうり行進こうしんつらならせ、わたしたちをつうじていたるところに、キリストをるという知識ちしきかおりをただよわせてくださいます」。わたくしたちのだれもが、なにかしらかおりをはなちます。わたくしたちも、わたくしたちがはなかおりのとどものが、キリストによって「すくいのみちをたどるもの」であってしいとねがいます。
キリストは、どこまでもわたくしたちをとらえ、くすべての支配しはい勝利しょうりし、わたくしたちをかみのもの、かみかおまえにあるものとしてくださいます。このわたししてくれたおかたとのまじわり、わたしいのちかしておられるかみとのしたしいまじわりへと、わたくしたちをまねき、えて、わたくしたちはこのかみとのまじわりにかされる。そして、このわたしさえすくいのみちをたどるものとしてくださるキリストは、このわたしはなかおりがおよものにもすくいのみちそなえてくださいます。
このため、キリストはわたくしたちの礼拝生活れいはいせいかつもちい、「いのちからいのちいたらせるかおり」をただよわせてくださいます。そうしてくださるキリストがおられるのであり、わたくしたちもこのキリストをおむかえしてまいります。わたくしたちはこのしゅイエス・キリストにかれかみ礼拝れいはいし、めんかってわたしってくださっているかみとのまじわりをかさねさせていただきます。このあゆみを、キリストはご自身じしん福音ふくいんつたえるためもちいてくださるのです。
神はわたくしたちのつくり主です。わたくしたちはこのかみすべられ、何一なにひとかくせるようなものをたない。むしろかみ私以上わたしいじょうにこのわたしっており、わたくしたちのさえもやぶり、ご自身じしん勝利しょうりあずからせる。このかみの、わたくしたちへのわらぬご意思いしを、かみ御子みこキリストを十字架じゅうじかから復活ふっかつさせ、宣言せんげんしてくださいました。そしてこのかみ宣言せんげんげる礼拝れいはいへとキリストはわたくしたちをまねき、わたくしたちをかみかおまえちあがらせてくださるのです。

2018年9月23日日曜日

「赦し この人が神の御前に」コリントの信徒への手紙二 2:1-11

わたくしたちはだれもが、自分じぶんたいしても他人ひとたいしてもやぶれをかかえます。聖書せいしょは、ひととの関係かんけいやぶれてしまうわたくしたちの根底こんていかみとの関係かんけいやぶれをます。かみまえにあるよろこびをうしなったわたくしたちは本当ほんとう自分じぶん見失みうしない、自分じぶんあいせず、ひとをもあいすることができないつみおちいる。この、やぶれをかかえたものが、ただキリストによって罪赦つみゆるされ、かみまえたせていただく。
キリストは、罪人つみびとのかしらとして、十字架じゅうじかでそのってくださいました。しかしこのキリストが、ふっかつさせられたのであり、かみは、罪人つみびとのかしらとしてんだこのキリストを、御前みまえたせ、わたくしたちのしゅとしてくださいました。これはこのおかたたいするかみ勝利しょうり宣言せんげんであり、かみさまは、わたくしたちのつみたいする勝利しょうりを、しゅ復活ふっかつあかしして宣言せんげんするのです。キリストはわたくしたちのつみやぶり、わたくしたちをもかみ御前みまえたせてくださいます。
われらにつみおかものわれらがゆるすごとくわれらのつみをもゆるたまえ」。こういのるようしゅキリストはめいじます。それはつみがただ自分じぶんかみとの関係かんけいだけのことではなく、自分じぶんひととの関係かんけいにおいてもかなしみをもたらすからです。パウロはコリントの教会きょうかいにあったかなしい出来事できごとについて、原因げんいんとなったひとゆるすようもとめます。「そのひとには、多数たすうものからけたあのばつ十分じゅうぶんです。むしろ、あなたがたは、そのひとかなしみにちのめされてしまわないように、ゆるして、ちからづけるべきです」。
ゆるがわの、ゆるしたあと責任せきにんは、キリストが一緒いっしょってくださいます。むしろキリストの責任せきにんのもとにこのひとたしかにくよう、もとめられます。「このものをも、キリストはかみまえたせてくださる」。キリストはすべきわたくしたちにまでへりくだってくださったのであり、すべてに勝利しょうりして、わたくしたちをあいするかみのもと、むかえてくださいます。教会きょうかいはこのキリストを信頼しんらいし、このかみよろこびへと、一人ひとりひとりをおむかえしてまいるのです。

2018年9月9日日曜日

「わたしたちの受ける慰め」コリントの信徒への手紙二 1:1-11

パウロはいます、「かみは、あらゆる苦難くなんさいしてわたしたちをなぐさめてくださるので、わたしたちもかみからいただくこのなぐさめによって、あらゆるなんなかにある人々ひとびとなぐさめることができます」。パウロがくるしめられたそのさいたるものは、コリントの教会きょうかいなかに、「パウロが使徒しとなどというのは、ふさわしくない」と批判ひはんする不信頼ふしんらいこえがあったということです。
たしかに、かつてパウロは教会きょうかい迫害はくがいしました。そしてステファノのさつがい賛成さんせいしました(使徒言行録8:1)。そのパウロですから「使徒しとにふさわしくない」と指摘してきされたら、そうでありましょう。パウロは自分じぶんただしさのうえつことなどできません。ですが、そのパウロをキリストはおてくださいます。パウロは、そうしてくださるしゅ信頼しんらいし、不信頼ふしんらいものたちにむかいます。「自分じぶんたよりにすることなく、死者ししゃ復活ふっかつさせてくださるかみたよりにするようになりました」。
パウロをみとめないものたちはパウロのめてきます。たとえ不信頼ふしんらい解消かいしょうされても、パウロが教会きょうかい迫害はくがいした過去かこしようがありません。ですからパウロのくるしみはのこります。なおえねばなりません。
そこでのなぐさめとは、くるしみがなくなるというものではありません。またなにか、くるしみによってかきみだされたこころおだやかになる、というようなものではありません。パウロにとってくるしみはなくならないのですが、過去かこせないからるのをあきらめてしまおう、というものでもない。

むしろここでパウロがいただくなぐさめは、たとえ相手あいてからめられても、なおそこでってく、あしみしめてゆくための、しゅからのはげましです。められるがこれまでの自分じぶんにあっても、それでもしゅイエス・キリストはごようのためなおこれからわたしたせてくださる。このしゅへの信頼しんらいはげましであるのです。このなぐさめをかみはわたくしたちにおあたえになります。わたくしたちは、すべきこの身をも復活させになる、かみ信頼しんらいし、なお礼拝れいはいをおささげしてまいるのです。