2017年5月7日日曜日

「花婿を迎えに出て行く」マタイによる福音書25:1-13

十人(じゅうにん)のおとめにとって花婿(はなむこ)を迎(むか)えに出(で)て行(い)くことは、大(おお)きな誉(ほま)れであり喜(よろこ)びです。おとめたちは花嫁(はなよめ)の家(いえ)で花婿(はなむこ)を待(ま)ちます。やって来(き)た花婿(はなむこ)を迎(むか)え、ともし火(ひ)を掲(かか)げて列(れつ)に連(つら)なり、花婿(はなむこ)と一緒(いっしょ)に婚宴(こんえん)の席(せき)に入(はい)ります。ただ、そのうちの愚(おろ)かな五人(ごにん)は、ともし火(び)を持(も)ちながらも油(あぶら)を用意(ようい)しませんでした。賢(かしこ)い五人(ごにん)は、ともし火(び)と一緒(いっしょ)に油(あぶら)を壺(つぼ)に入(い)れて持(も)っていました。
ところが花婿(はなむこ)はなかなか来(き)ません。おとめたちは皆(みな)、眠(ねむ)くなって眠(ねむ)り込(こ)んでしまいました。その真夜中(まよなか)に、おとめたちは花婿(はなむこ)が来(き)たと聞(き)き、皆(みな)起(お)きてともし火(び)を灯(とも)します。ここで愚(おろ)かなおとめたちは、ともし火(ひ)のための油(あぶら)がないと気(き)づきます。油(あぶら)を分(わ)けてくれるよう賢(かしこ)いおとめに頼(たの)みますが、賢(かしこ)いおとめたちは分(わ)けてあげるほど十(じゅう)分(ぶん)ありません。そこで店(みせ)で買(か)ってくるよう言(い)います。愚(おろ)かな五人(ごにん)が買(か)いに行(い)く間(あいだ)に花婿(はなむこ)は到着(とうちゃく)し、賢(かしこ)い五人(ごにん)のおとめたちが婚(こん)宴(えん)の席(せき)に入(はい)りました。



主(しゅ)イエスは言(げん)います「目(め)を覚(さ)ましていなさい」。主(しゅ)イエスは「迎(むか)えに出(で)なさい」との声(こえ)に対(たい)し目(め)を覚(さ)ましているよう求(もと)めます。その時(とき)になって、自分(じぶん)は油(あぶら)がないからどうせ駄目(だめ)だと言(い)うのでなく、自分(じぶん)は油(あぶら)を持(も)っているから大丈夫(だいじょうぶ)と決(き)めつけるのでもない。今(いま)このとき語(かた)りかける主人(しゅじん)の声(こえ)に目(め)を覚(さ)ましていることが大切(たいせつ)です。油(あぶら)の用意(ようい)があった五人(ごにん)は幸(さいわ)いにも店(みせ)へ買(か)いに行(い)くこともなく、「迎(むか)えに出(で)なさい」という声(こえ)に聞(き)き従(したが)うことができ、花婿(はなむこ)と一緒(いっしょ)に婚(こん)宴(えん)の席(せき)に入(はい)りました。

主(しゅ)イエスはこのたとえを語(かた)ることにより、主(しゅ)のご支配(しはい)がこの身(み)にやってくるその日(ひ)その時(とき)に対(たい)するわたくしたちの姿勢(しせい)を整(ととの)えます。主(しゅ)の到来(とうらい)を知(し)ったとき、この主(しゅ)を迎(むか)えに出(で)て行(い)くことが幸(さいわ)いです。「言(い)うべきことは教(おし)えられる。実(じつ)は、話(はな)すのはあなたがたではなく、あなたがたの中(なか)で語(かた)ってくださる、父(ちち)の霊(れい)である(10:19,20)」からです。父(ちち)はわたくしたちを愛(あい)します。この身(み)が滅(ほろ)んでも死(し)から新(あら)たに生(い)かしてくださる父(ちち)であられるのです。