主イエスは、身を寄せ合って相談していたファリサイ派の人たちのところへ顔を出して尋ねます。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」。彼らは言います。「ダビデの子です」。そこで主イエスは詩編第110篇を引いてきて言います。ダビデが聖霊を受けてメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。
天地万物を無から造った神さまは、お造りになったわたくしたちに対し放って置かれるのではありません。わたくしたちの名を呼んでわたくしたちをご自身と共におらせます。ただ、この造り主が造られた世界にご自身を示すため、特定の者へと介入することが伴います。神さまは選んだ者にご自身を現し、そこからご自身を告げ知らせるのです。そのため神さまはアブラハムを選び、ダビデを選びました。ダビデの子孫からメシアが現れる、と人々は考えました。
主イエスは、わたくしたちが聖霊を受けて主イエスをメシア・キリストと告白し、世を救う神の歴史に参与するよう望んでおられます。神がわたしを救うのは家系によるのではなく、神がわたしを選ぶことによるからです。このために神は家系を用いることがあります。そしてわたくしたちが神の救いの歴史に加えられて知るのは、わたくしたちに与えられた系図が意外にもこの歴史へと至るものであったということです。マタイによる福音書第一章の系図はこれを表しています。
家系によらず聖霊によって神の選びに与らせる、神の救いの歴史が新たに始まります。神は十字架で死んだイエスを死者の中から復活させ、この方がわたくしたちの主メシアであると証しました(使徒言行録2:36)。この証を告げ知らす民を神は聖霊によって興し、わたくしたちの名を呼んで礼拝へと招き、この民の歩みにわたくしたちをも加えます。わたくしたちの造り主は、なお新たにわたくしたちをご自身と共におらせたいのです。