子どもは大人に手を引かれ、立ちたくないところに立たされます。憧れるでしょうが、親から離され、保育園や幼稚園に入れられます。普段会わない親戚や親の仲間の前に連れ出され、挨拶するよう求められます。子どもは自分にとって未知の、新しい世界に飛び込むことが求められ、その度成長を与えられます。外へと引き出され、日々新たに生かされるのです。
子どもはそこで、自分が新たに生きるため、それまでの命を捨てます。そんな大げさなことを本人は考えてはいないでしょうが、子どもが新しい世界へと引き出され、知らなかった人々の中に生かされるということは、言い換えてみますなら、そういうことです。外国へ行ってわたくしたちは母国について知るのであり、自分の外へと引き出され、自分を新たに知るのです。自分の言葉が通じない世界へと引き出され、自分が生かされる言葉を新たに知るのです。
わたくしたちが神の前に立たされるということは、わたくしたちが自分の外へと引き出されることを伴います。神さまはわたくしたちではないからです。わたくしたちはこの方によって造られました。造られた者が自分の分を超えて造り主の立場に立つことはできません。そこには越え難い隔たりがあります。ないというのなら、自分の願望を当てはめ、神を自分の持ち物としているかもしれません。弟子たちがあたかも自分たちは天の国を手にしている、と思い込んでいたように。
主イエスは捕らえられ、裁かれ、十字架で死なれました。主イエスは誰も望まないところに引き出されたのです。しかしこの十字架で死んだ主イエスを、神は復活させてくださいました。復活させられた主イエスは、わたくしたちには越え難い隔たりを越え、わたくしたちのところへと来てくださいました。この方が、わたくしたち呼び寄せ、神の前へと立たせます。主イエスによって開かれた、神の前に立つ道へとこの手を引いてくださいます。