2016年10月30日日曜日

「この身が日々新たに」マタイによる福音書18:1−9

子(こ)どもは大人(おとな)に手(て)を引(ひ)かれ、立(た)ちたくないところに立(た)たされます。憧(あこが)れるでしょうが、親(おや)から離(はな)され、保育(ほいく)園(えん)や幼稚園(ようちえん)に入(い)れられます。普段(ふだん)会(あ)わない親戚(しんせき)や親(おや)の仲間(なかま)の前(まえ)に連(つ)れ出(だ)され、挨(あい)拶(さつ)するよう求(もと)められます。子(こ)どもは自(じ)分(ぶん)にとって未知(みち)の、新(あたら)しい世界(せかい)に飛(と)び込(こ)むことが求(もと)められ、その度(たび)成長(せいちょう)を与(あた)えられます。外(そと)へと引(ひ)き出(だ)され、日々(ひび)新(あら)たに生(い)かされるのです。
子(こ)どもはそこで、自分(じぶん)が新(あら)たに生(い)きるため、それまでの命(いのち)を捨(す)てます。そんな大(おお)げさなことを本人(ほんにん)は考(かんが)えてはいないでしょうが、子(こ)どもが新(あたら)しい世界(せかい)へと引(ひ)き出(だ)され、知(し)らなかった人々(ひとびと)の中(なか)に生(い)かされるということは、言(い)い換(か)えてみますなら、そういうことです。外国(がいこく)へ行(い)ってわたくしたちは母国(ぼこく)について知(し)るのであり、自分(じぶん)の外(そと)へと引(ひ)き出(だ)され、自分(じぶん)を新(あら)たに知(し)るのです。自分(じぶん)の言葉(ことば)が通(つう)じない世界(せかい)へと引(ひ)き出(だ)され、自分(じぶん)が生(い)かされる言葉(ことば)を新(あら)たに知(し)るのです。


わたくしたちが神(かみ)の前(まえ)に立(た)たされるということは、わたくしたちが自分(じぶん)の外(そと)へと引(ひ)き出(だ)されることを伴(ともな)います。神(かみ)さまはわたくしたちではないからです。わたくしたちはこの方(かた)によって造(つく)られました。造(つく)られた者(もの)が自分(じぶん)の分(ぶん)を超(こ)えて造(つく)り主(ぬし)の立場(たちば)に立(た)つことはできません。そこには越(こ)え難(がた)い隔(へだ)たりがあります。ないというのなら、自(じ)分(ぶん)の願望(がんぼう)を当(あ)てはめ、神(かみ)を自分(じぶん)の持(も)ち物(もの)としているかもしれません。弟子(でし)たちがあたかも自分(じぶん)たちは天(てん)の国(くに)を手(て)にしている、と思(おも)い込(こ)んでいたように。

主(しゅ)イエスは捕(と)らえられ、裁(さば)かれ、十(じゅう)字架(じか)で死(し)なれました。主(しゅ)イエスは誰(だれ)も望(のぞ)まないところに引(ひ)き出(だ)されたのです。しかしこの十字架(じゅうじか)で死(し)んだ主(しゅ)イエスを、神(かみ)は復活(ふっかつ)させてくださいました。復活(ふっかつ)させられた主(しゅ)イエスは、わたくしたちには越(こ)え難(がた)い隔(へだ)たりを越(こ)え、わたくしたちのところへと来(き)てくださいました。この方(かた)が、わたくしたち呼(よ)び寄(よ)せ、神(かみ)の前(まえ)へと立(た)たせます。主(しゅ)イエスによって開(ひら)かれた、神(かみ)の前(まえ)に立(た)つ道(みち)へとこの手(て)を引(ひ)いてくださいます。