わたくしたちが「神のものとされる」ということは、これまでの自分が、神を主人とする僕とされ、従わせられることです。主イエスは、わたくしたちがこれまで規範としたことから解き、まことに神を規範とすることへと従わせます。わたくしたちをこれまでの歩みから解き、自由にします。
わたくしたちは、自分が歩んできたこれまでの道のりを背負います。その過去が輝かしいものばかりなら、自分でも受け入れやすいのですが、そればかりではないということを、わたくしたちは経験します。ときに、そのわたくしたちの闇は、わたくしたちがこれから生きる道を断ち切ります。それでもなおこれまでの自分の歩みに規定され、過去に縛られるなら、わたくしたちは自分を背負うことに絶望しかねません。
自分で自分をどうすることもできないわたくしたちを、しかし造り主なる神さまは、ご自身のものとして、受け入れてくださいます。これまでの歩みに規定され、過去に縛られたわたくしたちを、神さまは神さまの僕として位置付け、将来へと生きる道のりを開いてくださるのです。
しかしただ単に自由となり、わたくしたちがこれまで規範としてきたことから解かれただけなら、それは過去の自分に対し無責任となったに過ぎず、そのかつての生き方そのものは少しも変わっていないことになりかねません。そこでは無責任になった分、わたくしたちはより暴君になっている疑いがあります。むしろ、わたくしたちを解いてくださった方の僕として、わたくしたちがこの主人の言葉に聞き、そして従ってこそ、わたくしたちはこの方によって解かれた意味と目的を持つのです。
主イエスはわたくしたちの将来を諦めません。わたくしたちを全く神のものとし、神のもとに命を得させるため、やって来られます。わたくしたちを新たに生かす将来へと、この手を引き続けてくださるのです。