2016年11月6日日曜日

「一人も滅びないために」マタイによる福音書18:10-14

(しゅ)イエスは()います。「これらの(ちい)さな(もの)一人(ひとり)でも(ほろ)びることは、あなたがたの(てん)(ちち)御心(みこころ)ではない」。(ほろ)びるとは、(ひと)(がわ)からは、(かみ)()らぬまま、()んで()わる(いのち)をただ()()かって(あゆ)むことです。(かみ)(がわ)からすると、(かみ)がもうわたしを見捨(みす)て、関係(かんけい)()やすことです。しかしそれは「あなたがたの(てん)(ちち)()(こころ)ではない」。
わたくしたちは、「自分(じぶん)()ねばそれでおしまい」と(かんが)えてはいないでしょうか。そのわたしを(かみ)さまは(さが)しに()ています。たしかに、()ねばわたしにとってはそれで()わりです。しかし(かみ)にとっては()わりではない。()んだわたくしたちをなお見出(みいだ)し、ご自身(じしん)のもとで(いのち)()させ、(よろこ)んでやまない(てん)(ちち)がおられるのです。
このお(かた)(しゅ)イエスはいつも、幼子(おさなご)父親(ちちおや)()ぶように「アッバ」と()びました。それほど、(しゅ)イエスは()(まえ)(てん)(ちち)()、この(ちち)御顔(みかお)(まえ)で、()らぐことがありませんでした。


ですが(しゅ)イエスは、(かみ)()であることを(つらぬ)(ゆえ)に、「(かみ)冒涜(ぼうとく)した」と(さば)かれ、十字架(じゅうじか)へと()(わた)されます。人々(ひとびと)は、(しゅ)イエスが(かみ)()ではないことを証明(しょうめい)するため、この(かた)十字架(じゅうじか)にかけます。その(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)(ののし)られ、軽蔑(けいべつ)されても、人々(ひとびと)期待(きたい)した(かみ)()らしさを見せません。むしろ(かみ)見捨(みす)てられたように()にました。
(おどろ)くべきことに、この(しゅ)イエスが三日目(みっかめ)によみがえりました。(かみ)さまは十字架(じゅうじか)()んで(ほうむ)られた(しゅ)イエスを、死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させたのです。この(かた)はまことに(てん)(ちち)であられ、(ちち)()のまことの関係(かんけい)手放(てばな)さなかったのです。(ちち)なる(かみ)さまはこの復活(ふっかつ)によって、御子(みこ)イエスがなお(てん)(ちち)御顔(みかお)(まえ)で「(ちち)よ」「()よ」と()()わす関係(かんけい)にあることを(あかし)しました。

この(てん)(ちち)がわたくしたちの(ちか)くにやって()(けっ)して()(はな)すことはない。「あなたがたの(てん)(ちち)」である、と(しゅ)イエスはわたくしたちに言います。一人(ひとり)(ほろ)びないため、この()()びかける(てん)(ちち)がおられるのです。