主イエスは言います。「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。滅びるとは、人の側からは、神を知らぬまま、死んで終わる命をただ死に向かって歩むことです。神の側からすると、神がもうわたしを見捨て、関係を絶やすことです。しかしそれは「あなたがたの天の父の御心ではない」。
わたくしたちは、「自分が死ねばそれでおしまい」と考えてはいないでしょうか。そのわたしを神さまは捜しに来ています。たしかに、死ねばわたしにとってはそれで終わりです。しかし神にとっては終わりではない。死んだわたくしたちをなお見出し、ご自身のもとで命を得させ、喜んでやまない天の父がおられるのです。
このお方を主イエスはいつも、幼子が父親を呼ぶように「アッバ」と呼びました。それほど、主イエスは目の前に天の父を見、この父の御顔の前で、揺らぐことがありませんでした。
ですが主イエスは、神の子であることを貫く故に、「神を冒涜した」と裁かれ、十字架へと引き渡されます。人々は、主イエスが神の子ではないことを証明するため、この方を十字架にかけます。その主イエスは十字架で罵られ、軽蔑されても、人々が期待した神の子らしさを見せません。むしろ神に見捨てられたように死にました。
驚くべきことに、この主イエスが三日目によみがえりました。神さまは十字架で死んで葬られた主イエスを、死者の中から復活させたのです。この方はまことに天の父であられ、父と子のまことの関係を手放さなかったのです。父なる神さまはこの復活によって、御子イエスがなお天の父の御顔の前で「父よ」「子よ」と呼び交わす関係にあることを証しました。
この天の父がわたくしたちの近くにやって来て決して手を離すことはない。「あなたがたの天の父」である、と主イエスはわたくしたちに言います。一人も滅びないため、この身に呼びかける天の父がおられるのです。