2016年10月2日日曜日

「失って得る神からの命」マタイによる福音書16:13-28

主(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)にかけられたその日(ひ)のうちに死(し)に、墓(はか)に葬(ほうむ)られました。しかし三日目(みっかめ)の朝(あさ)、婦人(ふじん)たちが墓(はか)へ行(い)ってみると、墓(はか)に主(しゅ)イエスのご遺体(いたい)はありません。
そこに現(あらわ)れたみ使(つか)いが言(い)います。「あの方(かた)は、ここにはおられない。かねて言(い)われていたとおり、復活(ふっかつ)なさったのだ(28:6)」。主(しゅ)イエスは言(い)っていました。ご自分(じぶん)が「必(かなら)ずエルサレムに行(い)って、長老(ちょうろう)、祭司(さいし)長(ちょう)、律法(りっぽう)学者(がくしゃ)たちから多(おお)くの苦(くる)しみを受(う)けて殺(ころ)され、三日目(みっかめ)に復活(ふっかつ)することになっている(21)」と。弟子(でし)たちはうまくこの言葉(ことば)を聞(き)き取(と)れません。主(しゅ)イエスから聞(き)いた時(とき)は、その言葉(ことば)に覆(おお)いがかかり、聞(き)いてもよくわからなかった。
しかしその覆(おお)いが取(と)り去(さ)られました。み使(つか)いは婦人(ふじん)たちに、主(しゅ)イエスが復活(ふっかつ)したと告(つ)げます。そして主(しゅ)イエスは、復活(ふっかつ)させられたご自身(じしん)を弟子(でし)たちに現(あらわ)し、神(かみ)の国(くに)のご支配(しはい)を疑(うたが)いようのない姿(すがた)で、表(あらわ)しました。


ペトロはこの時(とき)ようやく、かつて主(しゅ)イエスが言(い)った言葉(ことば)の中身(なかみ)を知(ち)り始(はじ)めます。「シモン・バルヨナ、あなたは幸(さいわ)いだ。あなたにこのことを現(あらわ)したのは、人間(にんげん)ではなく、わたしの天(てん)の父(ちち)なのだ(17)」。ペトロは、主(しゅ)イエスが十字架(じゅうじか)で死(し)んでしまったとき、失望(しつぼう)しました。躓(つまず)きました。しかしそのペトロの人間(にんげん)の思(おも)いを超(こ)えて、神(かみ)さまは「この方(かた)こそメシア、生(い)ける神(かみ)の子(こ)である」とペトロに告(つ)げたのです。神(かみ)さまは主(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させ、この、天(てん)の父(ちち)なる神(かみ)が現(あらわ)した言葉(ことば)のもとに、ペトロを立(た)ち上(あ)がらせます。

そしてこの、天(てん)の父(ちち)なる神(かみ)が現(あらわ)した、「この方(かた)こそメシア、生(い)ける神(かみ)の子(こ)である」という土台(どだい)、主(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)という岩(いわ)の上(うえ)に立(た)つ者(もの)を、主(しゅ)イエスは召(め)し集(あつ)めます。そのようにして主(しゅ)イエスは教会(きょうかい)をお立(た)てになり、ご自身(じしん)の復活(ふっかつ)を告(つ)げ知(し)らせる教会(きょうかい)の歩(あゆ)みを導(みちび)きます。この、造(つく)り主(ぬし)なる神(かみ)の言葉(ことば)に立(た)たせていただく群(むれ)の歩(あゆ)みを今日(こんにち)この地(ち)に至(いた)るまで、主(しゅ)イエスは導(みちび)いてくださいました。