弟子たちは、自分たちが持つ信仰によって、病で苦しむ子供から悪霊を追い出そうとしました。しかし主イエスから命じられながらも、それができません。そしてできないうちに諦め、止めてしまいました。「もはやこれまでである。信仰が薄い自分たちにはできない」と。その弟子たちに主イエスは言います。「いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか」。
主イエスは「信仰とは何か」という考えの転換をもたらします。そしてわたくしたちが、「なおあなたを信じます」と告白するとき、「いつまでもあなたがたと共にいる」と宣言する主イエスの声を聞くのです。主イエスは、「もはやこれまで」ではなかったご自身の死と復活とをわたくしたちに告げ知らせ、わたくしたちの思いを覆します。神は主イエスを復活させて、「もはやこれまで」と口にする他なかったわたくしたちに、唯一つの生きる道を拓いてくださいました。
主イエスはこの唯一つの道へとわたくしたちを導きます。そこで、「からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる」と言います。からし種は、砂つぶのように小さく、息を吹きかけるだけで飛ばされます。ですがこのからし種は畑にまくと、「どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる(13:32)」。もし、自分が持っているものがわずかで小さいと思えたとしても、神さまは豊かに成長させ、神さまの御用のために用いてくださいます。
主イエスは、神の力になお頼り、生かされ用いられるからし種の姿勢を指して、「からし種一粒ほどの信仰」と言います。それは、粒の小ささに釣り合わないほどの大きな祝福で満たす神への信頼に生きる姿です。自分の力はわずかでしかないけれど、しかしその自分を余りある祝福で満たす、神への全幅の信頼です。