2016年10月16日日曜日

「からし種一粒ほどの信仰」マタイによる福音書17:14-23

弟子(でし)たちは、自分(じぶん)たちが()信仰(しんこう)によって、(やまい)(くる)しむ子供(こども)から悪霊(あくれい)()()そうとしました。しかし(しゅ)イエスから(めい)じられながらも、それができません。そしてできないうちに(あきら)め、()めてしまいました。「もはやこれまでである。信仰(しんこう)(うす)自分(じぶん)たちにはできない」と。その弟子(でし)たちに(しゅ)イエスは()います。「いつまでわたしはあなたがたと(とも)にいられようか」。
(しゅ)イエスは「信仰(しんこう)とは(なに)か」という(かんが)えの転換(てんかん)をもたらします。そしてわたくしたちが、「なおあなたを(しん)じます」と告白(こくはく)するとき、「いつまでもあなたがたと(とも)にいる」と宣言(せんげん)する(しゅ)イエスの(こえ)()くのです。(しゅ)イエスは、「もはやこれまで」ではなかったご()(しん)()復活(ふっかつ)とをわたくしたちに()()らせ、わたくしたちの(おも)いを(くつがえ)します。(かみ)(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させて、「もはやこれまで」と(くち)にする(ほか)なかったわたくしたちに、唯一(ただひと)つの()きる(みち)(ひら)いてくださいました。


(しゅ)イエスはこの唯一(ただひと)つの(みち)へとわたくしたちを(みちび)きます。そこで、「からし(だね)一粒(ひとつぶ)ほどの信仰(しんこう)があれば、この(やま)()かって、『ここから、あそこに(うつ)れ』と(めい)じても、そのとおりになる」と()います。からし(だね)は、(すな)つぶのように(ちい)さく、(いき)()きかけるだけで()ばされます。ですがこのからし(だね)(はたけ)にまくと、「どんな(たね)よりも(ちい)さいのに、成長(せいちょう)するとどの野菜(やさい)よりも(おお)きくなり、(そら)(とり)()(えだ)()(つく)るほどの()になる(13:32)」。もし、自分(じぶん)()っているものがわずかで(ちい)さいと(おも)えたとしても、(かみ)さまは(ゆた)かに成長(せいちょう)させ、(かみ)さまの御用(ごよう)のために(もち)いてくださいます。

(しゅ)イエスは、(かみ)(ちから)になお(たよ)り、()かされ(もち)いられるからし(だね)姿勢(しせい)()して、「からし(だね)一粒(ひとつぶ)ほどの信仰(しんこう)」と()います。それは、(つぶ)(ちい)ささに()()わないほどの(おお)きな祝福(しゅくふく)()たす(かみ)への信頼(しんらい)()きる姿(すがた)です。自分(じぶん)(ちから)はわずかでしかないけれど、しかしその自分(じぶん)(あま)りある祝福(しゅくふく)()たす、(かみ)への全幅(ぜんぷく)信頼(しんらい)です。