2016年9月25日日曜日

「新しい道のはじまり」マタイによる福音書16:1-12

信仰(しんこう)(うす)(もの)たちよ」。(しゅ)イエスが弟子(でし)たちにこう()うのは、ここで弟子(でし)たちが(なに)()っているようで、(じつ)のところ()っていないからです。(しゅ)イエスが(もと)めるのは、()つのでなく、むしろ(かみ)さまに信頼(しんらい)()くことです。自分(じぶん)()()っている(なに)かしらのものにしがみつくことよりも、ただ、(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させてくださった(かみ)さまに、信頼(しんらい)()くことです。
そこで(しゅ)イエスは弟子(でし)たちを、(かれ)らの()(うち)から()()すという仕方(しかた)で、この(もの)たちを(あら)たに()かします。(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させてくださった(かみ)信頼(しんらい)()(みち)(あら)たにはじめます。
わたくしたちは「これで()い」と自分(じぶん)()なしうる終着地(しゅうちゃくち)()()ってはいません。しかし、(つく)(ぬし)なる(かみ)さまが「これで()い」と()っていただけるところへと、(しゅ)イエスはわたくしたちを(つね)(あら)たに()()すのです。(かみ)さまはわたくしたちを復活(ふっかつ)(しゅ)イエスに(つづ)(もの)としてくださいます。


それでもなお、わたくしたちは「(てん)からのしるしを()せてほしい」と(ねが)うかもしれません。しかし(しゅ)イエスは「ヨナのしるしのほかには、しるしは(あた)えられない」と()います。(しゅ)イエスは、わたくしたちには、ご自身(じしん)復活(ふっかつ)(あかし)されることが必要(ひつよう)だと()ます。わたくしたちへと(かた)りかけられた(つく)(ぬし)なる(かみ)言葉(ことば)として、いよいよわたくしたちへと(あき)らかにされることが必要(ひつよう)だと()ているのです。

わたくしたちにとって死者(ししゃ)復活(ふっかつ)はなんとも不自然(ふしぜん)出来事(できごと)です。しかしこの、わたくしたちにとって不自然(ふしぜん)ともみえる、(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)において、(つく)(ぬし)なる(かみ)さまは、わたくしたちに実現(じつげん)すべきご自身(じしん)(おも)いを、(つく)られた()(しめ)してくださいました。()から天地(てんち)(つく)った(かみ)復活(ふっかつ)(しゅ)イエスに(つづ)(もの)とわたくしたちをしてくださり、()から(いのち)へと(あら)たに()かしてくださいます。(かみ)さまは、「これで()い」と(つく)(ぬし)なるご自身(じしん)()ってくださるところへと、わたくしたちを(つね)(あら)たに()()してゆくのです。