2016年5月29日日曜日

「神の竪琴を手にして」ヨハネの黙示録 15:1-16:21

ヨハネの黙示録(もくしろく)は、ヨハネが見(み)たいくつもの幻(まぼろし)を書(か)き記(しる)すことにより、来(きた)るべき日(ひ)のためわたくしたちが備(そな)えるよう求(もと)めます。この来(きた)るべき日(ひ)は世界(せかい)の終(お)わりとも、自分(じぶん)の生(しょう)涯(がい)の終(お)わりとも、受(う)け取(と)ることができます。いずれにせよ、最後(さいご)の最後(さいご)に「あなたは何(なに)を信(しん)じるのか」と、自(みずか)らの信仰(しんこう)を突(つ)き詰(つ)めて問(と)われる日(ひ)が来(く)る。この、来(きた)るべき日(ひ)のため、ヨハネは、全能者(ぜんのうしゃ)である神(かみ)と、屠(ほふ)られた小(こ)羊(ひつじ)イエス・キリストに対(たい)する信仰(しんこう)をなお守(まも)り続(つづ)けるよう求(もと)めます(14:12)。
第(だい)15章(しょう)と16章(しょう)は、ひと続(つづ)きの幻(まぼろし)ですがこの幻(まぼろし)において屠(ほふ)られた小羊(こひつじ)である主(しゅ)イエス・キリストは、表(おもて)には出(で)ません。ただ一箇所(いっかしょ)、「わたしは」と一人称(いちにんしょう)で語(かた)りかける主(しゅ)イエス・キリストの声(こえ)が、響(ひび)きます。「見(み)よ、わたしは盗人(ぬすびと)のように来(く)る。裸(はだか)で歩(ある)くのを見(み)られて恥(はじ)をかかないように、目(め)を覚(さ)まし、衣(ころも)を身(み)に着(つ)けている人(ひと)は幸(さいわ)いである(16:15)」。
主(しゅ)イエスは、ご自身(じしん)がわたくしたちのところへやって来(く)る、と約束(やくそく)します。恥(はじ)をかくのは、屠(ほふ)られた小羊(こひつじ)の血(ち)によって贖(あがな)われたにもかかわらず、そうでないかのようにしている、わたくしたちの姿(すがた)が露(あら)わになるからです。わたくしたちのこの身(み)に、最後(さいご)の最後(さいご)、主(しゅ)イエス・キリストのご支配(しはい)が全(まっと)うされます。何(なに)ものからも、死(し)の支配(しはい)からも、主(しゅ)イエスのご支配(しはい)によって解(と)かれることになる。この方(かた)を一心(いっしん)に信頼(しんらい)し、主(しゅ)イエスが来(く)る、来(きた)るべきその日(ひ)を待(ま)ち望(のぞ)むよう、主(しゅ)は命(めい)じるのです。

わたくしたちが死(し)を前(まえ)にひれ伏(ふ)す相手(あいて)は、この死(し)をも支配(しはい)する全能(ぜんのう)の神(かみ)と、わたくしたちの死(し)に勝利(しょうり)するイエス・キリストです。わたくしたちは死(し)を免(まぬか)れえません。しかしわたくしたちの命(いのち)の造(つく)り主(ぬし)である全能(ぜんのう)の神(かみ)は、わたくしたちをご自身(じしん)の前(まえ)に立(た)たせてくださいます。この御方(おかた)が十字架(じゅうじか)で死(し)んだ御子(みこ)イエスを死(し)から復活(ふっかつ)させました。この御子(みこ)の血(ち)によって神(かみ)はわたくしたちを贖(あがな)い、わたくしたちをも死(し)から復活(ふっかつ)させてくださるのです。