2016年5月8日日曜日

「捨て身の祝福」マタイによる福音書10:34−42

(しゅ)イエスは()います。「わたしよりも(ちち)(はは)(あい)する(もの)は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子(むすこ)(むすめ)(あい)する(もの)も、わたしにふさわしくない」。わたくしたちにとって家族(かぞく)()っても()れない、(なに)よりも(ちか)関係(かんけい)にあります。しかし(しゅ)イエスはここで、(しゅ)との(まじ)わりこそが第一(だいいち)()ます。この(しゅ)との関係(かんけい)へと、わたくしたちが自分(じぶん)()てて(したが)うよう(もと)めます。
とはいえ(しゅ)イエスは、わたくしたちが家族(かぞく)(たい)する責任(せきにん)()てて(しゅ)(したが)うことを(もと)めません。「自分(じぶん)十字(じゅうじ)()(にな)ってわたしに(したが)わない(もの)は、わたしにふさわしくない」。わたくしたちは自分自身(じぶんじしん)という十字架(じゅうじか)自分(じぶん)家族(かぞく)という十字架(じゅうじか)(にな)って(しゅ)イエスに(したが)うのです。(しゅ)イエスはわたくしたちの家族(かぞく)を、(しゅ)にあって()()えて(ひと)つという希望(きぼう)へと()かわせます。
そこで(しゅ)イエスは()います。「自分(じぶん)(いのち)()ようとする(もの)は、それを(うしな)い、わたしのために(いのち)(うしな)(もの)は、かえってそれをるのである」。家族かぞくは、わたくしたちにとってほかなによりも第一だいいちです。けれどもそのような関係かんけいは、えません。いくらおもいをせても、えてまじわるということはありません。ところが、しゅにあってんだわたくしたちはしゅにあって家族かぞくえてまじわるのです。この希望きぼうを、てんちちなるかみさまは、御子みこつかわして、わたくしたちにあかしします。
わたくしたちの(つく)(ぬし)である(かみ)さまは、十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させることをもって、この(てん)(ちち)が、()()えて御子(みこ)イエスと一体(いったい)であることを(あかし)しました。わたくしたちと(つく)(ぬし)なる(かみ)との関係(かんけい)は、(なに)よりも(ちか)く、()()えてわたくしたちと不可分(ふかぶん)であることを(あかし)してくださったのです。この(つく)(ぬし)なる(かみ)がわたくしたちの(てん)(ちち)として、わたくしたちをも()から(いのち)へと()かします。復活(ふっかつ)(しゅ)は、わたくしたちのところへ()(したが)わせ、わたくしたちの家族(かぞく)をも()()えて(かみ)御前(みまえ)()()がらせ、(ひと)つとしてくださるのです。