2016年6月5日日曜日

「造り主との永遠の交わり」マタイによる福音書 12:1-14

(しゅ)イエスは、安息日(あんそくび)(さだ)めた(かみ)さまの(こころ)(とど)けるため、聖書(せいしょ)引用(いんよう)して()います。「わたしが(もと)めるのは(あわ)れみであって、いけにえではない」(ホセア6:6)。こう(しゅ)イエスが強調(きょうちょう)したのは、(しゅ)イエスに()いを()げかけたファリサイ()(ひと)たちが、律法(りっぽう)(あた)えた(かみ)(こころ)よりも、律法(りっぽう)(まも)(かたち)のほうを(おも)んじることへと(おちい)っていたからです。
(かみ)さまはいけにえを(よろこ)ばないわけではありません。ただ、わたくしたちが礼拝(れいはい)すべきお(かた)は、わたくしたちの(つく)(ぬし)です。このお(かた)が、いけにえとなる(いのち)をわたくしたちに(あた)えるのであり、わたくしたちがささげる(まえ)に、(かみ)さまの(いつく)しみがわたくしたちに(そそ)がれています。(かみ)さまはこの(いつく)しみをわたくしたちに()らせ、ご自身(じしん)()として()るため、御子(みこ)イエスを(あた)えました。この御子(みこ)をいけにえとして、身代金(みのしろきん)として()(わた)してくださったのです(20:28)。


この(かみ)(こころ)をわたくしたちにいよいよ()らせるため、この(かた)御子(みこ)イエスを死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させました。御子(みこ)十字架(じゅうじか)は、それを()()たりにした(もの)にとって、(かみ)との絶縁(ぜつえん)意味(いみ)しました。しかし、この御子(みこ)死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させられ、復活(ふっかつ)させられた主イエスはご自身(じしん)弟子(でし)たちに現わしました。(しゅ)イエスはわたくしたちが()んでなお(かみ)(いつく)しみに(あずか)ることを(しめ)します。()んでなおわたくしたちを()(なか)()(てん)(ちち)永遠(えいえん)(まじ)わりを(もと)める(つく)(ぬし)がおられるのです。

(いま)やわたくしたちの(まえ)に、()すべきこの()(あら)たにし、ご自身(じしん)(まえ)()かす、(てん)(ちち)からの()らせがあります。御子(みこ)復活(ふっかつ)をもって(かみ)さまはわたくしたちに(おお)いなる安息(あんそく)(しめ)してくださいました。もはや、わたくしたちと関係(かんけい)のない(たん)なる(ちち)(こころ)があるのでも、わたくしたちが(めん)()かって(おう)じなくとも()ませられるような、(たん)なる(かみ)()権利(けんり)があるのでも、ない。()きた(かみ)との(まじ)わりに永遠(えいえん)()かすことを、(てん)(ちち)(ねが)っているのです。