主イエスは、安息日を定めた神さまの心を届けるため、聖書を引用して言います。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(ホセア6:6)。こう主イエスが強調したのは、主イエスに問いを投げかけたファリサイ派の人たちが、律法を与えた神の心よりも、律法を守る形のほうを重んじることへと陥っていたからです。
神さまはいけにえを喜ばないわけではありません。ただ、わたくしたちが礼拝すべきお方は、わたくしたちの造り主です。このお方が、いけにえとなる命をわたくしたちに与えるのであり、わたくしたちがささげる前に、神さまの慈しみがわたくしたちに注がれています。神さまはこの慈しみをわたくしたちに知らせ、ご自身の子として得るため、御子イエスを与えました。この御子をいけにえとして、身代金として明け渡してくださったのです(20:28)。
この神の心をわたくしたちにいよいよ知らせるため、この方は御子イエスを死者の中から復活させました。御子の十字架は、それを目の当たりにした者にとって、神との絶縁を意味しました。しかし、この御子が死者の中から復活させられ、復活させられた主イエスはご自身を弟子たちに現わしました。主イエスはわたくしたちが死んでなお神の慈しみに与ることを示します。死んでなおわたくしたちを手の中に置く天の父、永遠に交わりを求める造り主がおられるのです。
今やわたくしたちの前に、死すべきこの身を新たにし、ご自身の前に生かす、天の父からの知らせがあります。御子の復活をもって神さまはわたくしたちに大いなる安息を示してくださいました。もはや、わたくしたちと関係のない単なる父の心があるのでも、わたくしたちが面と向かって応じなくとも済ませられるような、単なる神の子の権利があるのでも、ない。生きた神との交わりに永遠に生かすことを、天の父は願っているのです。