「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」と主イエスは言います。一アサリオンは六十円ほどのようですが、ともかく、この雀は一羽では売り値もつかぬ、価値なき扱いを受けている。しかし天の父なる神さまは、誰よりその尊さを知っています。それはこの方が、命の造り主だからです。
造り主である神さまはわたくしたちの死をも支配しています。たとえわたくしたちがこの神さまを知らずとも、わたくしたちがこの神さまの手から離れて、死ぬことも生きることもありません。わたくしたちがたとえ自分を見捨てたとしても、神さまが見捨てた死はなく、生もないのです。雀ほどにも自分に価値を見出せなかったとしても、天の父は、わたくしたちを受け入れ、わたくしたちを共におらせてくださいます。
わたくしたちは与えられた命をよりよく生きたいと願います。それは単に、自分の欲を満足させて済むような問題ではありません。わたくしたちが造り主によって造られた通りに生きることが、わたくしたちにとって最もよいことであるはずです。たとえ、わたくしたちが「もう死にたい、なお生きて何の意味があろうか」と問うたとしても、それは、本当は生きたいからではないでしょうか。もし生きるなら、より生き生きと生きたいのに、そうできない自分がいるから、このように問うのではないでしょうか。死にたいと願う自分も、より生き生きとここから新たに生きられるなら、そこに懸ける手もあるのではないでしょうか。
わたくしたちをここからなお新たに生かす、神がおられます。十字架で死んだ主イエスを神さまは復活させました。わたくしたちを死をこえて受け入れ、死からの復活に与らせる、神がおられるのです。わたくしたちを死から生かすこの神の言葉が、わたくしたちの命の根源に据えられています。