2016年5月1日日曜日

「根源に据えられた言葉」マタイによる福音書10:26-33

二羽(にわ)(すずめ)(いち)アサリオンで()られているではないか。だが、その一羽(いちわ)さえ、あなたがたの(ちち)のお(ゆる)しがなければ、()()ちることはない」と(しゅ)イエスは()います。(いち)アサリオンは六十(ろくじゅう)(えん)ほどのようですが、ともかく、この(すずめ)一羽(いちわ)では()()もつかぬ、価値(かち)なき(あつか)いを()けている。しかし(てん)(ちち)なる(かみ)さまは、(だれ)よりその(とおと)さを()っています。それはこの(かた)が、(いのち)(つく)(ぬし)だからです。
(つく)(ぬし)である(かみ)さまはわたくしたちの()をも支配(しはい)しています。たとえわたくしたちがこの(かみ)さまを()らずとも、わたくしたちがこの(かみ)さまの()から(はな)れて、()ぬことも()きることもありません。わたくしたちがたとえ自分(じぶん)見捨(みす)てたとしても、(かみ)さまが見捨(みす)てた()はなく、(せい)もないのです。(すずめ)ほどにも自分(じぶん)価値(かち)見出(みいだ)せなかったとしても、(てん)(ちち)は、わたくしたちを()()れ、わたくしたちを(とも)におらせてくださいます。
わたくしたちは(あた)えられた(いのち)をよりよく()きたいと(ねが)います。それは(たん)に、自分(じぶん)(よく)満足(まんぞく)させて()むような問題(もんだい)ではありません。わたくしたちが(つく)(ぬし)によって(つく)られた(とお)りに()きることが、わたくしたちにとって(もっと)もよいことであるはずです。たとえ、わたくしたちが「もう()にたい、なお()きて(なん)意味(いみ)があろうか」と()うたとしても、それは、本当(ほんとう)()きたいからではないでしょうか。もし()きるなら、より()()きと()きたいのに、そうできない自分(じぶん)がいるから、このように()うのではないでしょうか。()にたいと(ねが)自分(じぶん)も、より()()きとここから(あら)たに()きられるなら、そこに()ける()もあるのではないでしょうか。
わたくしたちをここからなお(あら)たに()かす、(かみ)がおられます。十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを(かみ)さまは復活(ふっかつ)させました。わたくしたちを()をこえて()()れ、()からの復活(ふっかつ)(あずか)らせる、(かみ)がおられるのです。わたくしたちを()から()かすこの(かみ)言葉(ことば)が、わたくしたちの(いのち)根源(こんげん)()えられています。