2016年5月22日日曜日

「なお慈しむ救い主」マタイによる福音書 11:20-30

(しゅ)イエスはわたくしたちに()びかけます。「(つか)れた(もの)重荷(おもに)()(もの)は、だれでもわたしのもとに()なさい。(やす)ませてあげよう。わたしは柔和(にゅうわ)謙遜(けんそん)(もの)だから、わたしの(くびき)()い、わたしに(まな)びなさい。そうすれば、あなたがたは(やす)らぎを()られる」。
労苦(ろうく)しながら(だれ)からも(みと)められず(つか)()てるということを、およそわたくしたちは経験(けいけん)します。そのような、(みと)められないでいる自分(じぶん)のままであることもまた、わたくしたちには()()れがたいことです。そのわたくしたちをしかし(しゅ)イエスはご自身(じしん)十字架(じゅうじか)のもとに(まね)きます。(しゅ)イエスはご自身(じしん)十字架(じゅうじか)のもとで、わたくしたちをすべての労苦(ろうく)から()きます。そのためにこの(かた)十字架(じゅうじか)()んだのです。(しゅ)イエスは(みずか)らを()して()います。「(ひと)()が、(つか)えられるためではなく(つか)えるために、また、(おお)くの(ひと)身代金(みのしろきん)として自分(じぶん)(いのち)(ささ)げるために()た(20:28)」。
わたくしたちは重荷(おもに)()かれますが、だからと()って、自分(じぶん)()勝手(かって)をするよう(みと)められたわけではありません。(しゅ)イエスは「わたしの(くびき)()い、わたしに(まな)びなさい」と()います。(しゅ)イエスの(くびき)()うわたくしたちは、(しゅ)イエスの十字架(じゅうじか)()(とも)()にます。ただ、それで()わることへと()かうのではありません。この(かた)によって()から復活(ふっかつ)させられ、御子(みこ)イエスと(てん)(ちち)なる(かみ)さまとの、()かたれることのない(まじ)わりへと(くわ)えられるのです。

たとえ、(だれ)からも()(はな)され(いな)まれても、また自分(じぶん)がこの()現実(げんじつ)()()(がた)くいても、()においても、(しゅ)イエスはわたくしたちをなお(いつく)しみ、()()れ、ご自身(じしん)(くびき)によって(ちち)()(まじ)わりに(くわ)えます。(じつ)に、()さえも、(ちち)()(まじ)わり、(かか)わりを()くことはできませんでした。(しゅ)イエスは復活(ふっかつ)させられました。(しゅ)イエスはご自身(じしん)復活(ふっかつ)()()らせることをもって、この関係(かんけい)へとわたくしたちを(あずか)らせ、天地(てんち)(しゅ)である御父(おんちち)(まえ)に、とこしえに()()がらせてくださいます。