主イエスはわたくしたちに呼びかけます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」。
労苦しながら誰からも認められず疲れ果てるということを、およそわたくしたちは経験します。そのような、認められないでいる自分のままであることもまた、わたくしたちには受け入れがたいことです。そのわたくしたちをしかし主イエスはご自身の十字架のもとに招きます。主イエスはご自身の十字架のもとで、わたくしたちをすべての労苦から解きます。そのためにこの方は十字架で死んだのです。主イエスは自らを指して言います。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た(20:28)」。
わたくしたちは重荷を解かれますが、だからと言って、自分の好き勝手をするよう認められたわけではありません。主イエスは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言います。主イエスの軛を負うわたくしたちは、主イエスの十字架の死と共に死にます。ただ、それで終わることへと向かうのではありません。この方によって死から復活させられ、御子イエスと天の父なる神さまとの、分かたれることのない交わりへと加えられるのです。
たとえ、誰からも見放され否まれても、また自分がこの身の現実を受け入れ難くいても、死においても、主イエスはわたくしたちをなお慈しみ、受け入れ、ご自身の軛によって父と子の交わりに加えます。実に、死さえも、父と子の交わり、関わりを割くことはできませんでした。主イエスは復活させられました。主イエスはご自身の復活を告げ知らせることをもって、この関係へとわたくしたちを与らせ、天地の主である御父の前に、とこしえに立ち上がらせてくださいます。