主イエスは、弟子たちを遣わすにあたり、そこで直面する困難について告げます。それは主イエスの僕とされたわたくしたちに語った言葉でもあります。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」。
父なる神さまが、わたくしたちの語る言葉の責任を負ってくださいます。つまりそれは、どこまでも、父なる神さまがわたくしたちを見捨てない、ということです。責任を放り投げてしまわないで負い切ってくださる、と主イエスは約束します。だから、「何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる」。そのときに教えてくれるのは、天の父なる神さまです。そこで、この神の言葉にわたくしたちが聞くことを主イエスは求めます。
父なる神さまがわたくしたちを見捨てず、なおわたくしたちを懐に抱く幸いをわたくしたちに与えています。わたくしたちはもはや、たとえわたくしたちが誰からも別れ、手の届かぬ死を迎えても、最後の時にすべての交わりから絶たれても、みなしごのようであるまま、終わってしまうのではありません。最後の最後においてなお、わたくしたちを掴んで離さない天の父なる神さまがいます。わたくしたちは、他に置き換えて得ることなど決してない、最後まで立つことのできるところを与えられるのです。
そして、これがわたくしたちの独り言ではなく、わたくしたちの造り主なる神さまがわたくしたちたちへと注いでやまぬ神の思いであることを、神さまは十字架で死んだ主イエスを復活させて表してくださいました。わたくしたちの死すべきこの身を受け入れ、永遠の命へと新たに生かす神がここに示されました。わたくしたちはここに、わたくしたちへと語られた造り主なる神の声を聞くのです。