2016年4月24日日曜日

「ただ一つの慰め」マタイによる福音書10:16-25

(しゅ)イエスは、弟子(でし)たちを(つか)わすにあたり、そこで直面(ちょくめん)する困難(こんなん)について()げます。それは(しゅ)イエスの(しもべ)とされたわたくしたちに(かた)った言葉(ことば)でもあります。「()(わた)されたときは、(なに)をどう()おうかと心配(しんぱい)してはならない。そのときには、()うべきことは(おし)えられる。(じつ)は、(はな)すのはあなたがたではなく、あなたがたの(なか)(かた)ってくださる、(ちち)(れい)である」。
(ちち)なる(かみ)さまが、わたくしたちの(かた)言葉(ことば)責任(せきにん)()ってくださいます。つまりそれは、どこまでも、(ちち)なる(かみ)さまがわたくしたちを見捨(みす)てない、ということです。責任(せきにん)(ほう)()げてしまわないで()()ってくださる、と(しゅ)イエスは約束(やくそく)します。だから、「(なに)をどう()おうかと心配(しんぱい)してはならない。そのときには、()うべきことは(おし)えられる」。そのときに(おし)えてくれるのは、(てん)(ちち)なる(かみ)さまです。そこで、この(かみ)言葉(ことば)にわたくしたちが()くことを(しゅ)イエスは(もと)めます。
(ちち)なる(かみ)さまがわたくしたちを()()てず、なおわたくしたちを(ふところ)(いだ)(さいわ)いをわたくしたちに(あた)えています。わたくしたちはもはや、たとえわたくしたちが(だれ)からも(わか)れ、()(とど)かぬ()(むか)えても、最後(さいご)(とき)にすべての(まじ)わりから()たれても、みなしごのようであるまま、(おわ)わってしまうのではありません。最後(さいご)最後(さいご)においてなお、わたくしたちを(つか)んで(はな)さない(てん)(ちち)なる(かみ)さまがいます。わたくしたちは、(ほか)()()えて()ることなど(けっ)してない、最後(さいご)まで()つことのできるところを(あた)えられるのです。
そして、これがわたくしたちの(ひと)(ごと)ではなく、わたくしたちの(つく)(ぬし)なる(かみ)さまがわたくしたちたちへと(そそ)いでやまぬ(かみ)(おも)いであることを、(かみ)さまは十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させて(あらわ)してくださいました。わたくしたちの()すべきこの()()()れ、永遠(えいえん)(いのち)へと(あら)たに()かす(かみ)がここに(しめ)されました。わたくしたちはここに、わたくしたちへと(かた)られた(つく)(ぬし)なる(かみ)(こえ)()くのです。