重い皮膚病を患ったこの男は、主イエスに問いました。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。主イエスは手を差し伸べてこの男に触れ、「よろしい、清くなれ」と言います。主イエスの御心は男が清くなることです。主イエスはこの男に、神の思いを満たします。
ただ、病を清くすることが神の御心であるならば、これを御心と受け入れることは、それと共に、病を得たのも神の御心だった、と神の摂理を受け入れることをも、伴います。何か、清くすることだけが神の御心であって、病を得ることは神の御心でなかった、と人間の側から決めつけることはできません。
ですから、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」という主イエスへの信頼は、受け入れがたいこの自分と、なお主イエスが共におられる、という事実を受け止めさせられることを伴います。
たしかに、不条理な現実を突き付けられ、それが神の御心だったなどと、簡単に受け入れられるものではありません。しかしそれが幸いであるのは、わたくしたちの将来が、神の御心を満たされることへと向かうからには、今も、そして過去も、神の御心のもとにあったという事実の上にわたくしたちが立たされることです。主イエスはこの神への信頼へと導き、わたくしたちを伴ってくださいます。
時に神さまはわたくしたちに絶望すら突き付けます。その前にわたくしたちは苦しみ、立ち尽くします。しかしなお、その絶望をこえてわたくしたちを僕とし、御心が実現するよう望む、主イエス・キリストが共にいます。
神の御心は、主イエスによってわたくしたちが神の国に生きることです。神の民の一員として、造り主なる神をほめたたえることです。この御心を神さまは主イエスの復活において、わたくしたちと共にある事実として宣言してくださいました。主イエスは御心をこの身に満たしてくださいます。