主イエスはわたくしたちに、祈り求めることを命じます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」。
ここで求める相手は、天の父なる神さまです。一方でわたくしたちは、人に向かって求めても、期待外れな応えが返って来ることがあります。「あの人を信頼してお願いしたのに、上手く行かなかった。かえって嫌な思いをさせられた。信頼を裏切られた」。そういう経験をします。すると、もう人に頼るのを止めてしまいます。
ただ、そのわたくしたちにも、なお頼ることのできる天の父がいる、と主イエスは強調します。そこで、この御方に正しく求めるのかが問われます。天の父なる神にのみ、祈り求めているのか。どこか、「祈りは聞かれない、求めても与えられない、信じてもも無意味だ」と二心を抱きつつ求めてはいないか。もしくは、「もらえて当然であり、求めなくても神さまは与えるはず、言わずともやってくれるはず」と怠惰な思いに囚われていないか。求めてないのではないか。
主イエスは言います。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」。
父は待っているのです。わが子が叫び求めることを。子が知る以上に親はわが子の必要がわかります。子が知る以上の答と解決を、親は持っています。だから、与えるべく、叫び求めるのを待っている。わたくしたちをそこから引き出そうと待っている天の父がいます。「あなたがたの天の父は、なおさらである」。天の父なる神さまは、わたくしたちに天の門を開く用意があることを、主イエスを死者の中から復活させて証しました。今やこの門がたたかれることを待っています。