2016年1月10日日曜日

「求める者は受ける」マタイによる福音書7:1-12


(しゅ)イエスはわたくしたちに、(いの)(もと)めることを(めい)じます。「(もと)めなさい。そうすれば、(あた)えられる。(さが)しなさい。そうすれば、()つかる。(もん)をたたきなさい。そうすれば、(ひら)かれる。だれでも、(もと)める(もの)()け、(さが)(もの)()つけ、(もん)をたたく(もの)には(ひら)かれる」。
ここで(もと)める相手(あいて)は、(てん)(ちち)なる(かみ)さまです。一方(いっぽう)でわたくしたちは、(ひと)()かって(もと)めても、期待(きたい)(はず)れな(こた)えが(かえ)って()ることがあります。「あの(ひと)信頼(しんらい)してお(ねが)いしたのに、上手(うま)()かなかった。かえって(いや)(おも)いをさせられた。信頼(しんらい)裏切(うらぎ)られた」。そういう経験(けいけん)をします。すると、もう(ひと)(たよ)るのを()めてしまいます。
ただ、そのわたくしたちにも、なお(たよ)ることのできる(てん)(ちち)がいる、と(しゅ)イエスは強調(きょうちょう)します。そこで、この御方(おかた)(ただ)しく(もと)めるのかが()われます。(てん)(ちち)なる(かみ)にのみ、(いの)(もと)めているのか。どこか、「(いの)りは()かれない、(もと)めても(あた)えられない、(しん)じてもも無意味(むいみ)だ」と二心(ふたごころ)(いだ)きつつ(もと)めてはいないか。もしくは、「もらえて当然(とうぜん)であり、(もと)めなくても(かみ)さまは(あた)えるはず、()わずともやってくれるはず」と怠惰(たいだ)(おも)いに(とら)われていないか。(もと)めてないのではないか。
(しゅ)イエスは()います。「あなたがたのだれが、パンを()しがる自分(じぶん)子供(こども)に、(いし)(あた)えるだろうか。(さかな)()しがるのに、(へび)(あた)えるだろうか」「まして、あなたがたの(てん)(ちち)は、(もと)める(もの)()(もの)をくださるにちがいない」。
(ちち)()っているのです。わが()(さけ)(もと)めることを。()()以上(いじょう)(おや)はわが()必要(ひつよう)がわかります。()()以上(いじょう)(こたえ)解決(かいけつ)を、(おや)()っています。だから、(あた)えるべく、(さけ)(もと)めるのを()っている。わたくしたちをそこから()()そうと()っている(てん)(ちち)がいます。「あなたがたの(てん)(ちち)は、なおさらである」。(てん)(ちち)なる(かみ)さまは、わたくしたちに(てん)(もん)(ひら)用意(ようい)があることを、(しゅ)イエスを死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させて(あかし)しました。(いま)やこの(もん)がたたかれることを()っています。