2016年1月17日日曜日

「狭い門から入りなさい」マタイによる福音書7:13-20



主(しゅ)イエスは言います。「狭(せま)い門(もん)から入(はい)りなさい。滅(ほろ)びに通(つう)じる門(もん)は広(ひろ)く、その道(みち)も広々(ひろびろ)として、そこから入(はい)る者(もの)が多(おお)い。しかし、命(いのち)に通(つう)じる門(もん)はなんと狭(せま)く、その道(みち)も細(ほそ)いことか。それを見(み)いだす者(もの)は少(すく)ない」。
広(ひろ)い門(もん)は、そこから入(はい)ったとして、わたくしたちが命(いのち)を得(え)るとは言(い)えません。というのも、このわたくしたちが命(いのち)を得(え)る門(もん)は、この自分(じぶん)が命(いのち)を得(え)る門(もん)であるはずだからです。万人(ばんにん)が同(おな)じ道(みち)を経(へ)て命(いのち)を得(え)たとして、この自(じ)分(ぶん)がそれによって命(いのち)を得(え)ると、わたしが言(い)うことができるでしょうか。
ですから、主(しゅ)イエスは、そのあなたが命(いのち)を得(え)る門(もん)を探(さが)し、見(み)いだし、入(はい)りなさい、と言(い)います。それは換言(かんげん)すれば、広(ひろ)い門(もん)によっては命(いのち)を得(え)ないこの自分(じぶん)を知(し)れ、ということです。広(ひろ)い門(もん)によっては命(いのち)を得(え)ないあなたを見(み)いだせということです。命(いのち)に通(つう)じる門(もん)は狭(せま)くその道(みち)も細(ほそ)いのは、それだけ、わたくしたちが自分自身(じぶんじしん)を知(し)るに足(た)りていないからです。
単(たん)に広(ひろ)い門(もん)が主(しゅ)イエスによって用(よう)意(い)されただけなら、わたくしたちにはなお関係(かんけい)がなく、その道(みち)をゆくつもりのわたくしたちは、かえって滅(ほろ)びに通(つう)じる他(ほか)ないのかもしれません。それゆえ、このわたしが救(すく)われるのかどうか、命(いのち)を得(え)るかどうか、これが問題(もんだい)です。それは狭(せま)き門(もん)だとわたくしたちも判(わか)ります。このわたくしたちが救(すく)われるのかどうか、自分(じぶん)の側(がわ)からは知(し)り得(え)ないからです。
わたくしたちが、自分(じぶん)の側(がわ)から知(し)り得(え)ないからには、知(し)り得(え)ないところから始(はじ)めるほかありません。けれども、そのわたくしたちがどこへと道(みち)を進(すす)むのか、何(なに)も、終(お)わりが不確(ふたし)かな中(なか)を、知(し)らないところから始(はじ)めるのではありません。命(いのち)の造(つく)り主(ぬし)なる神(かみ)さまが、主(しゅ)イエスの死(し)からの復活(ふっかつ)において、わたくしたちが至(いた)るべきところを明(あき)らかにしてくださいました。この復活(ふっかつ)を目指(めざ)し、主(しゅ)イエスはわたくしたちを僕(しもべ)とし、主(しゅ)イエスという門(もん)を通(とお)って永遠(えいえん)の命(いのち)を得(え)る道(みち)を導(みちび)くのです。