広い門は、そこから入ったとして、わたくしたちが命を得るとは言えません。というのも、このわたくしたちが命を得る門は、この自分が命を得る門であるはずだからです。万人が同じ道を経て命を得たとして、この自分がそれによって命を得ると、わたしが言うことができるでしょうか。
ですから、主イエスは、そのあなたが命を得る門を探し、見いだし、入りなさい、と言います。それは換言すれば、広い門によっては命を得ないこの自分を知れ、ということです。広い門によっては命を得ないあなたを見いだせということです。命に通じる門は狭くその道も細いのは、それだけ、わたくしたちが自分自身を知るに足りていないからです。
単に広い門が主イエスによって用意されただけなら、わたくしたちにはなお関係がなく、その道をゆくつもりのわたくしたちは、かえって滅びに通じる他ないのかもしれません。それゆえ、このわたしが救われるのかどうか、命を得るかどうか、これが問題です。それは狭き門だとわたくしたちも判ります。このわたくしたちが救われるのかどうか、自分の側からは知り得ないからです。
わたくしたちが、自分の側から知り得ないからには、知り得ないところから始めるほかありません。けれども、そのわたくしたちがどこへと道を進むのか、何も、終わりが不確かな中を、知らないところから始めるのではありません。命の造り主なる神さまが、主イエスの死からの復活において、わたくしたちが至るべきところを明らかにしてくださいました。この復活を目指し、主イエスはわたくしたちを僕とし、主イエスという門を通って永遠の命を得る道を導くのです。