「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」。そう主イエスは言います。岩の上に自分の家を建てるのが賢いことであるというのは、わたくしたちにも判ります。ただ、ここで岩の上とは、何か過去の実績や、主イエスを我がものとすることではありません。なお主イエスの言葉を聞くことです。行えるほどに聞くことです。主イエスの言葉に聞くことを、土台とすることです。
過去のわたくしたちの実績によって何か、わたくしたちの足場が固くなり、天の国に入る条件や保証となるのではありません。むしろ、過去の実績によって立つということは、砂の上に家を建てることなのかもしれません。その家は、かの日の裁きに耐え得ないと主イエスは言います。
そこで主イエスは、なおこれからわたくしたちを立ち上がらせる、主イエスの言葉に聞くことを求めます。それはマタイによる福音書によれば、神の御心が示された主イエスの十字架の死と死からの復活に、神の言葉を聞くことです。なおこれから聞くことです。
主イエスご自身、この父なる神さまの言葉に、聞き続けました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに(26:39)」そう祈るに至らせられ、主イエスは十字架で死んでゆかれました。
けれどもこの主イエスを神さまは復活させました。人間の目には、聞きたかった神の御心は、十字架の死を免れることです。しかし神さまの御心はそうではなかった。神さまの御心は、主イエスを十字架の死に差し出し、しかしこの方を、死から復活させることにありました。死んだ者にさえ、神の御心を実現する神の言葉があることを、神さまは主イエスの復活において明らかにしてくださいました。主イエスはこの神の言葉を語り続け、命を得させてくださいます。