2016年2月7日日曜日

「ただひと言を待つ神」マタイによる福音書8:5-13


天地(てんち)(つく)られた(かみ)さまは、十字架(じゅうじか)()んで(ほうむ)られた(しゅ)イエスを、死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させました。復活(ふっかつ)させることにおいて、(かみ)言葉(ことば)(かた)ってくださいました。(つく)(ぬし)なる(かみ)からの言葉(ことば)として、(しゅ)イエスを()から復活(ふっかつ)させてくださいました。(かみ)さまは、わたくしたちの(いのち)(つく)ったご自身(じしん)にしかなせない(わざ)をもって、権威(けんい)ある(かみ)のひと(こと)(かた)ってくださったのです。
このひと(こと)を、(てん)からのものと(みと)めるか、そもそも復活(ふっかつ)(みと)めるか。(ひがし)から西(にし)から、大勢(おおぜい)異邦人(いほうじん)が、(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)()()らされ、これを(かみ)(わざ)(しん)じました。礼拝(れいはい)する(たみ)一員(いちいん)として、永遠(えいえん)(いのち)(あずか)(みち)(あゆ)(はじ)めました。その(いえ)(しゅ)イエスをお(むか)えできるような(もの)ではなかった異邦人(いほうじん)、ふさわしくないと(みずか)らみなす(ほか)なかったそのところにまで、(かみ)さまは(しゅ)イエスによって(かみ)のひと(こと)(あた)え、()んだ(もの)にさえ支配(しはい)(およ)ぼす(かみ)のひと(こと)希望(きぼう)として()えてくださいました。
わたくしたちはそれぞれに信仰(しんこう)(あた)えられ、聖書(せいしょ)()んだり(いの)ったりします。ただ、それが自分(じぶん)から()(かんが)えや(おも)いにすぎないのではなく、まことに(かみ)さまから、この自分(じぶん)へと(あた)えられた信仰(しんこう)だと()必要(ひつよう)があります。たしかに、自分(じぶん)自分(じぶん)信仰(しんこう)納得(なっとく)したらそれでよいのかもしれません。ですが、どうしようもない(やまい)や、(さか)らい()ない()直面(ちょくめん)したなら、自分(じぶん)言葉(ことば)自分(じぶん)納得(なっとく)させることなど、しきれないでしょう。やはり、(かみ)からこの()(かた)られた、(かみ)のひと(こと)がこの()にも必要(ひつよう)だったのではないでしょうか。
わたくしたちが(かみ)のひと(こと)(あら)たに()き、「(しゅ)よ、(ちち)よ」と(さけ)(もと)めるのを、(てん)(ちち)なる(かみ)さまは()っておられます。それはわたくしたちが(しゅ)イエスの(しもべ)となることです。(しゅ)イエスの十字架(じゅうじか)()()からの復活(ふっかつ)において(かみ)言葉(ことば)()き、(かみ)のひと(こと)がそこから(あら)たにこの()へと(かた)()けられるのを()(のぞ)むことです。(かみ)礼拝(れいはい)する(たみ)一員(いちいん)であることを、(かみ)さまはわたくしたちに(もと)めておられるのです。