主イエスは十字架で死んでゆかれます。そこに神の御国が来たとは、神の御心が行われたとは、誰の目にも見えませんでした。けれども、この十字架の死さえ、神の御心なくしてもたらされたものではない。むしろ、天の父なる神さまは、造り主の御心が天にあるのと同じく、十字架の死さえも、地上に実現する祝福としてしまわれた。神さまはその御心を、主イエスを死者の中から復活させることによって、明らかにしてくださいました。
主イエスの十字架の死は、人間の目には、すべての望みを絶やされた、絶望にほかなりませが、主イエスは絶望では終わりませんでした。天の父なる神さまは、十字架の死にさえ命をもたらす希望をなお備えていました。これが、わたくしたちへ差し出された御心であることを、主イエスの復活は証ししています。わたくしたちがたとえ、自らが手にする希望をすべて失い、それによって死んだとしても、死をこえる希望を造り主なる神はなお持っており、わたくしたちへと、この希望を満たしてくださるのです。
自らの死を前にして、神の国のご支配を、わたくしたちも待ち望むでありましょう。主イエスがこの身に来てくださることを、待ち望むことでしょう。そこでは、何かこちらがしたとか、地上の人間の側から確かな保証を持とうとしても、天の主イエスの側から来てくれなくては、成り立ちません。ですからわたくしたちも祈るのです。主イエスよ来てください、この身に御国のご支配を来らせたまえ、と。
そのわたくしたちへと「来る」という約束を、神さまは主イエスの十字架の死と死からの復活に証ししました。わたくしたち一人ひとりを、洗礼と聖餐に与らせることをもって、聖霊を与え、この約束に与らせてくださいます。神はわたしを御国に迎えてくれるだろうか。そう問わざるを得ない、自分では受け入れ得ない自らであっても、しかし御父は、このわたくしたちを受け入れてくださるのです。