わたくしたちは、自分が「神」とする相手に向かってしか、死ぬことはできません。そこではわたくしたちも叫ぶことが生じます。死を前に自分が何に向かって叫ぶのか。そこで叫ぶ相手が誰であるのか、問われます。
主イエスもまた、十字架の死において叫びました。天の父なる神さまに向かって叫びました。わたくしたちも、死に際し叫ぶ叫びがあってよいのです。主イエスの後に従って、「父よ」と叫んでよいのです。わたくしたちの命を造り、この命を生かし、死から復活させて造り主の「良し」をこの身に満たす御方へと、わたくしたちも叫んでよい。「父よ」と叫ぶ先を主イエスが与えてくださいました。
そう、わたくしたちが希望をもって叫ぶのであれば、そう叫んでまでも希望をもって死を迎えるこの身であるということを、わたくしたちは周りの者にも知ってほしいと願うことでしょう。また、この身に差し出された希望が、一人ひとりにとって死を越えて備えられた希望であることを知ってほしいと願いはしないでしょうか。死に行くこの身に備えられたこの希望が、あなたにも届けられていることを、知ってもらいたい。
主イエスは「御名が崇められますように」と祈るよう命じます。この祈りは、一人ひとりへとこの父の名が及ぼされるように、という広がりをもちます。世をあげて、この名が崇められますように、と。それがわたくしたちの叫びであり、死を前にして執り成し祈る祈りとしてなお与えられています。
このように執り成し祈る先人たちによって、わたくしたちのところにまで、天の父なる神さまの名が届けられました。子どもが親を選ばずとも、親が子どもの親であるように、わたくしたちはこの父と子の関係を手放しで自らに受け入れることを求められます。それゆえ、「天にまします我らの父よと」祈り叫ぶことを許された者として、わたくしたちもこの身をあげて、父が呼びかける声に応えるのです。