2015年11月15日日曜日

「天にまします我らの父よ」マタイによる福音書6:7-9


わたくしたちは、自分(じぶん)が「神(かみ)」とする相手(あいて)に向(む)かってしか、死(し)ぬことはできません。そこではわたくしたちも叫(さけ)ぶことが生(しょう)じます。死(し)を前(まえ)に自分(じぶん)が何(なに)に向(む)かって叫(さけ)ぶのか。そこで叫(さけ)ぶ相(あい)手(て)が誰(だれ)であるのか、問(と)われます。
主(しゅ)イエスもまた、十字架(じゅうじか)の死(し)において叫(さけ)びました。天(てん)の父(ちち)なる神(かみ)さまに向(む)かって叫(さけ)びました。わたくしたちも、死(し)に際(さい)し叫(さけ)ぶ叫(さけ)びがあってよいのです。主(しゅ)イエスの後(あと)に従(したが)って、「父(ちち)よ」と叫(さけ)んでよいのです。わたくしたちの命(いのち)を造(つく)り、この命(いのち)を生(い)かし、死(し)から復活(ふっかつ)させて造(つく)り主(ぬし)の「良(よ)し」をこの身(み)に満(み)たす御方(おかた)へと、わたくしたちも叫(さけ)んでよい。「父(ちち)よ」と叫(さけ)ぶ先(さき)を主(しゅ)イエスが与(あた)えてくださいました。
そう、わたくしたちが希望(きぼう)をもって叫(さけ)ぶのであれば、そう叫(さけ)んでまでも希(き)望(ぼう)をもって死(し)を迎(むか)えるこの身(み)であるということを、わたくしたちは周(まわ)りの者(もの)にも知(し)ってほしいと願(ねが)うことでしょう。また、この身(み)に差(さ)し出(だ)された希望(きぼう)が、一人(ひとり)ひとりにとって死(し)を越(こ)えて備(そな)えられた希望(きぼう)であることを知(し)ってほしいと願(ねが)いはしないでしょうか。死(し)に行(ゆ)くこの身(み)に備(そな)えられたこの希(き)望(ぼう)が、あなたにも届(とど)けられていることを、知(し)ってもらいたい。
主(しゅ)イエスは「御名(みな)が崇(あが)められますように」と祈(いの)るよう命(めい)じます。この祈(いの)りは、一人(ひとり)ひとりへとこの父(ちち)の名(な)が及(およ)ぼされるように、という広(ひろ)がりをもちます。世(よ)をあげて、この名(な)が崇(あが)められますように、と。それがわたくしたちの叫(さけ)びであり、死(し)を前(まえ)にして執(と)り成(な)し祈(いの)る祈(いの)りとしてなお与(あた)えられています。
このように執(と)り成(な)し祈(いの)る先人(せんじん)たちによって、わたくしたちのところにまで、天(てん)の父(ちち)なる神(かみ)さまの名(な)が届(とど)けられました。子(こ)どもが親(おや)を選(えら)ばずとも、親(おや)が子(こ)どもの親(おや)であるように、わたくしたちはこの父(ちち)と子(こ)の関係(かんけい)を手放(てばな)しで自(みずか)らに受(う)け入(い)れることを求(もと)められます。それゆえ、「天(てん)にまします我(われ)らの父(ちち)よと」祈(いの)り叫(さけ)ぶことを許(ゆる)された者(もの)として、わたくしたちもこの身(み)をあげて、父(ちち)が呼(よ)びかける声(こえ)に応(こた)えるのです。