2015年11月1日日曜日

「あなたを立上がらす慰め主」ヨハネによる福音書16:1-11


(しゅ)イエスは「弁護者(べんごしゃ)をあなたがたのところに(おく)る」と()います。(しゅ)イエスは(てん)(ちち)のみもとに()って()かれ、()()たちは(かな)しみで()たされる。しかしその(かれ)らのところに弁護者(べんごしゃ)()る、と()うのです。
この「弁護者(べんごしゃ)」は「慰師(なぐさむるもの)明治(めいじ)(やく))」「(たす)(ぬし)口語訳(こうごやく))」と日本語(にほんご)(やく)されました。「(なぐさ)める」というとわたくしたちは、波立(なみた)(こころ)(なぎ)(あた)えられ、平静(へいせい)となることを、(おも)うのではないでしょうか。(なぐさ)めは、なにかによって一時(ひととき)(こころ)()()れとした状態(じょうたい)にすることだと(おも)うのです。
しかし聖書(せいしょ)がわたくしたちに(かた)りかける(なぐさ)めは、そればかりではありません。わたくしたちを(はげ)まし、()()がらせることを(ふく)みます。わたくしたちにとりましても、一旦(いったん)(こころ)()れたとして、そこから()かうべきところが(さだ)かにされることが必要(ひつよう)です。()においてすべてを手放(てばな)さねばならないわたくしたちにとって、なお将来(しょうらい)希望(きぼう)(そな)えられていてこそ、わたくしたちは()においても()つことを()るからです。
(しゅ)イエスは「弁護者(べんごしゃ)をあなたがたのところに(おく)る」と()いました。この(べん)護者(ごしゃ)によって(しゅ)イエスは、わたくしたちの()()こうから、わたくしたちへと(かた)りかけます。わたくしたちへと(かた)りかけられますのは、(かみ)さまの(おも)いです。そもそも、この(かみ)(おも)いによってわたくしたちの(いのち)(つく)られました。わたくしたちの(いのち)(つく)った(かみ)さまが、(つね)将来(しょうらい)()きものとしてわたくしたちへと(ひら)いておられます。この(かみ)(こえ)を、天地(てんち)(つく)(ぬし)なる(かみ)さまは、(じゅう)字架(じか)()んで(ほうむ)られた(しゅ)イエスを()(しゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させて、(ひび)かせてくださいました。
この()(かけ)けの(まえ)()たされる(あゆ)みを、(かみ)さまはわたくしたちに(のぞ)んでおられます。わたくしたちはたとえ(かな)しみ、(くる)しみがなおあろうとも、()()こう(がわ)から()()けられるこの(こと)()によって、わたくしたちに(そな)えられた希望(きぼう)へと()かわせられるのです。