主イエスは「弁護者をあなたがたのところに送る」と言います。主イエスは天の父のみもとに去って行かれ、弟子たちは悲しみで満たされる。しかしその彼らのところに弁護者が来る、と言うのです。
この「弁護者」は「慰師(明治訳)」「助け主(口語訳)」と日本語に訳されました。「慰める」というとわたくしたちは、波立つ心に凪を与えられ、平静となることを、思うのではないでしょうか。慰めは、なにかによって一時心を晴れ晴れとした状態にすることだと思うのです。
しかし聖書がわたくしたちに語りかける慰めは、そればかりではありません。わたくしたちを励まし、立ち上がらせることを含みます。わたくしたちにとりましても、一旦心が晴れたとして、そこから向かうべきところが定かにされることが必要です。死においてすべてを手放さねばならないわたくしたちにとって、なお将来に希望が備えられていてこそ、わたくしたちは死においても立つことを得るからです。
主イエスは「弁護者をあなたがたのところに送る」と言いました。この弁護者によって主イエスは、わたくしたちの死の向こうから、わたくしたちへと語りかけます。わたくしたちへと語りかけられますのは、神さまの思いです。そもそも、この神の思いによってわたくしたちの命が造られました。わたくしたちの命を造った神さまが、常に将来を良きものとしてわたくしたちへと開いておられます。この神の声を、天地の造り主なる神さまは、十字架で死んで葬られた主イエスを死者の中から復活させて、響かせてくださいました。
この呼び掛けの前に立たされる歩みを、神さまはわたくしたちに望んでおられます。わたくしたちはたとえ悲しみ、苦しみがなおあろうとも、死の向こう側から呼び掛けられるこの言葉によって、わたくしたちに備えられた希望へと向かわせられるのです。