わたくしたちには、自分も他者も知っている自分の姿があります。また、自分は知っているが、他者は知らない自分の姿があることを知っています。さらには、他者が知っているけど、自分が知らない自分の姿もあります。そして、自分も他者も知らないままの自分の姿があるのです。
よほど、わたくしたちが自分のことを知らないものだ、と思わせられます。ただ、天の父なる神さまはわたくしたちのすべてを知っています。この方はわたくしたちの造り主です。主イエスは、わたくしたちのこれらすべての自分を、天の父なる神さまへと向けて導きます。
知っている自分もそうですが、知らない自分を自分で操れる訳ではありません。その自分を神に向かわすとすれば、それは、神に向かう御方に導いてもらうほかありません。そのため、主イエス・キリストはわたくしたちのところへと来てくださったのです。
神さまがお造りになったそのとおりにわたくしたちが生きるよう、主イエス・キリストがわたくしたちのところに来てくださいました。この方がわたくしたちをご自分の死と死からの復活に与らせ、天の父の前に永遠に立つ者としてくださいます。
主イエスが十字架で死んだ時、その死を高く評価する者は誰もいませんでした。しかしこの主イエスを神さまは死者の中から復活させ、この方が一心に天の父なる神さまへと向かって死なれたことを証してくださいました。省みて何も持ち得ないわたくしたちです。そのわたくしたちが死を越えて神の前に立てるとすれば、それは復活の主イエスが、わたくしたちのために十字架を負い切ったと宣言しておられるからです(20:28)。
この復活の主の言葉が、わたくしたちのところへと来ました。この復活の主イエスの言葉に聞き続けることにおいて、わたくしたちもまたひたすら、一心に天の父なる神さまへと向かわせて頂けるのです。