2015年11月22日日曜日

「この日に語りかける声」ヨハネの黙示録1:9-20


わたくしたちは、わたくしたちが(しん)告白(こくはく)する(しゅ)イエス・キリストから(こえ)()こうとするとき、(かみ)さまがそこで(なに)(かた)るのを期待(きたい)するでしょうか。自分(じぶん)(こころ)をいやしてくれる(やさ)しい(こと)()でしょうか。自分(じぶん)(たす)けてくれる、(こま)った問題(もんだい)解決(かいけつ)する言葉(ことば)でしょうか。そういう言葉(ことば)をわたくしたちが(もと)め、また(しゅ)イエスから()()ることもあるでしょう。
()んだように(たお)れたヨハネに(しゅ)イエスは(のぞ)み、()いました。「(おそ)れるな。わたしは最初(さいしょ)(もの)にして最後(さいご)(もの)、また()きている(もの)である。一度(いちど)()んだが、()よ、世々(よよ)(かぎ)りなく()きて、()陰府(よみ)(かぎ)()っている」。(しゅ)イエスは聖霊(せいれい)によってわたくしたちに(のぞ)み、ご自身(じしん)がわたくしたちの(しゅ)として、()から復活(ふっかつ)させられたことを(かた)りかけます。また、十字架(じゅうじか)()()げてわたくしたちの(あがな)いを()たしたことを(しゅ)イエスは()げ、わたくしたちを()()がらせます。
(ぎゃく)から()ますと、わたくしたちが(しゅ)イエスを(しん)じ、「この(かた)()から(ふっ)(かつ)させられ、わたくしたちのため十字(じゅうじ)()()に、(あがな)いを()たされた」と(しん)じるとすればそれは、そのわたくしたちへと(しゅ)イエスが(のぞ)み、ご自身(じしん)(あか)ししてくださった果実(かじつ)です。たとえわたくしたちがそうは()なさなかったとしても。なぜなら、聖霊(せいれい)によらなければ、(だれ)(かみ)(しん)(はじ)めることができず、(しゅ)イエスの十字(じゅうじ)()()()からの復活(ふっかつ)も、この()(かか)わりがまだなかったはずだからです(一コリント十二・三)。
(しゅ)()(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)()(かみ)さまはわたくしたちを礼拝(れいはい)(まね)き、(しゅ)イエス・キリストを()()らせます。その(とき)わたくしたちは(なに)()こうというのでしょうか。(しゅ)イエスは、ご自身(じしん)がどなたであるのか、わたくしたちに(かた)ります。御前(みまえ)()んだわたくしたちを()()がらせる(かた)として、ご自身(じしん)(かた)ります。この(かた)がわたくしたちの(さい)(しょ)として死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させられ、(いま)()き、世々(よよ)にわたくしたちを支配(しはい)する全能者(ぜんのうしゃ)であるのです。