主イエスは、漁師であるペトロとアンデレに言いました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と。わたし主イエスがあなた方を、人間をとる漁師にする、「わたしがあなた方をそうする」と言います。つまり、「人間をとる漁師」としてペトロたちをそこに立たせる責任を、主イエスが負っているのです。そこにおいては、何か、他の人から称賛されるかどうかとか、失敗したらどうしようとか、そのような、何か自分で自分を立てなくてはならないという責任を投げつけられているのではありません。むしろそのような自己責任から解き放つ命令を主イエスはここで与えておられるのです。
主イエスは「わたしがあなた方をそうする」と言います。たとえわたくしたちが打ち倒されても、なおこの身を主のご用のために立ててくださる御方が、共におられます。「わたしについて来なさい」「あなたがたは、わたしの後に来なさい」という呼び掛けは、なおこの身を主のご用のために立ててくださる、絶えることのない呼び掛けとして、主イエスから届けられています。主イエスの後に従うということは、ご自身のご用のため、この身をなお立ててくださる御方への、絶えることのない信頼に生きるということです。
神さまは何のため自分の命を造ったのか。何の働きのため自分を召しておられるのか。その神さまの召しにかなった道を歩ませるため、主イエスが呼び掛けます。その道が、意味のある、わたくしたちを生かす希望の道であることを、主イエスの復活は告げています。主イエスはご自身の死からの復活を証しして、たとえわたくしたちが打ち倒されても、なおこの身をご自身のご用のために立ち上がらせる神がおられることを、明らかにされました。死を迎えるわたくしたちの命に、なお後を従い行かせるべく呼び掛ける御方が共におられます。わたくしたちの命はその誕生から、根本から、すべて造り主の祝福と共にあり、まさに来らんとする命を得る途上にあるのです。この方の呼び掛ける声に従って、わたくしたちもこの方の後を、なお歩ませて頂けるのです。