主イエスはガリラヤ地方へ帰って「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣べ伝えました。この呼び掛けは、何か漠然とした言葉が漠然とした相手に向けられているのではありません。わたくしたちの主イエスが、「あなたは神に立ち帰れ」と呼び掛けています。
それは、主イエスが、わたくしたちの生をあきらめていないからです。造り主なる神さまと共にある命をあきらめていないからです。主イエスはわたくしたちを、死に向かって終わる生から、死を越えて造り主と共にある生へと生かします。わたくしたちを天の国で永遠の命に生かすことを、主イエスはあきらめておられません。
この主イエスは、十字架の死において、わたくしたちの命の代価を支払った方です。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た(20:28)」。そう主イエスはご自身を証しします。この主イエスが、わたくしたちの命をあきらめていない。
「悔い改めよ」との命令は、この思いから語られています。わたくしたちの命の造り主、天の父なる神さまは、わたくしたちをご自身の前に、ご自身と共に、永遠に生かそうとしておられる。この父なる神さまの思いに立ち帰るように。わたくしたちが死で終わる生に埋没することから、主イエスは永遠の命へとわたくしたちを引き出しておられるのです。
ただそのわたくしたちも、神さまの思いからすぐに離れてしまいます。暗闇に住み、死の陰の地に住むほかない、死んで終わりの命に陥ってしまう。ですからわたくしたちは、この命を造った神さまの思いを、なおも知ることが必要です。繰り返し聞かされることが、何としても必要です。主イエスはわたくしたちの命をあきらめておられません。その主イエスがわたくしたちを礼拝へと招き、ご自身の十字架での死と、死からの復活を宣べ伝えておられます。わたくしたちの生は、主イエスの復活の光の中に入れられています。この事実を聞き続ける幸いを、主イエスはご自身におこされた神のご支配を宣べ伝え、わたくしたちに与えておられるのです。