洗礼者ヨハネは主イエスを指し示します。「わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。ヨハネが、後から来る主イエスの履物をお脱がせする値打ちもないのなら、ヨハネのではなく主イエスの洗礼を受けた方が、値打ちがある、ということになり、その方がよいではないかと思います。しかしヨハネは問います。「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と。種ともみ殻を選り分け、もみ殻は消えることのない火で焼き払われる。その洗礼にあなたは耐えられるのか。だから、後から来るその主を迎えられるよう、主の道をまっすぐにせよ、とヨハネは荒れ野で叫びます。
わたくしたちには、それぞれに安住の地があります。それを意識や言葉にしていようがしていまいが、暗黙のうちに、わたくしたちは安住の地に住んでいます。ヨハネの問いは、わたくしたちがそれで良いのか、という指摘として聞こえます。そしてまた、わたくしたちは、たとえ教会で洗礼を受けた者であっても、礼拝をながく守ってきた者であっても、誰もが自らの死を前にして、自分を問うのではないでしょうか。本当に自分はこれで良いのか、と。自分が安住の地としてこれまで問うこともせずに生きて来たそのところにある自分。この自分が、天の国に入れるのか。
そのわたくしたちに、神さまは主イエス・キリストを与えました。神さまは十字架で死んだ主イエスを復活させ、この復活を宣べ伝えることを通して、死から命へと向かう命の根拠をわたくしたちに据えておられます。
天の国を待ち望み、わたくしたちに近づいた天の国を受け入れることは、神さまによる第二の創造の業にわたくしたちが与らせられることです。死から命へと復活させられることです。この身を新たに創造する神がおられます。主イエスと共にあるわたくしたちの死は、その再創造の業に与るものです。神さまは聖霊によってわたくしたちに主イエスのご支配を深め、広め、まことに主を礼拝する僕の歩みを、新たに始めさせてくださいます。