主イエスは言いました。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」。ここで主イエスが見ます「貧しさ」は、単に物質的な貧しさ、経済的な貧しさではありません。心の貧しさです。自分では満たし得ない貧しさを抱える、自分の乏しさです。そこから立ち直る力のない、貧しさ乏しさです。
わたくしたちが見つめられる自分の貧しさは、向き合えないほどに深刻な貧しさではありません。満たされる可能性がない貧しさではありません。満たされる可能性がない貧しさに対し、わたくしたちは絶望する他ないからです。そんな自分の貧しさに向き合ってゆくことなど出来ません。
ですからわたくしたちは、自らの貧しさをも知っているとすれば、満たされる手段をも知っているからであり、満たされることを願います。一方で、自分が抱える本当の貧しさ、絶望する他ない自分については、とても立ち入ることが出来ないでいます。ただ、自らの貧しさに向き合わないことで、その絶望が自分からなくなるわけではありません。依然として心の奥底に横たわり、折に触れてわたくしたちの内にも外にも顔を表してくる。
主イエスは、「心の貧しい人々は、幸いである」と言います。わたくしたちが自分では向き合えなかった心の貧しさを直視して、「その貧しさを抱えたあなたと、わたしが共にいる」と言います。わたくしたちが絶望するほかないこの身の現実を傍らで見て、しかし主イエスは絶望していません。死を前にしたわたくしたちに対してもそうです。わたくしたちにとって避けようのない、迫り来る絶望を前にして、しかし主イエスは共におられ、わたくしたちに絶望しておられない。
主イエスは死者の中から復活させられ、死すべきこの身へと主イエスはやって来られました。主イエスはご自身の復活をわたくしたちに示し、死すべきこの身の絶望のただ中に、命の造り主なる神さまのご支配が満たされることを、明らかにします。主イエスは、絶望する他なかったこの身と共におられ、天の国に生きる者としてくださるのです。