2015年9月6日日曜日

「心の貧しい人々は幸い」マタイによる福音書 5:1-12


(しゅ)イエスは()いました。「(こころ)(まず)しい人々(ひとびと)は、(さいわ)いである、(てん)(くに)はその(ひと)たちのものである」。ここで(しゅ)イエスが()ます「(まず)しさ」は、(たん)物質(ぶっしつ)(てき)(まず)しさ、経済的(けいざいてき)(まず)しさではありません。(こころ)(まず)しさです。自分(じぶん)では()たし()ない(まず)しさを(かか)える、自分(じぶん)(とぼ)しさです。そこから()(なお)(ちから)のない、(まず)しさ(とぼ)しさです。
わたくしたちが()つめられる()(ふん)(まず)しさは、()()えないほどに深刻(しんこく)(まず)しさではありません。()たされる可能性(かのうせい)がない(まず)しさではありません。()たされる可能性(かのうせい)がない(まず)しさに(たい)し、わたくしたちは絶望(ぜつぼう)する(ほか)ないからです。そんな自分(じぶん)(まず)しさに()()ってゆくことなど出来(でき)ません。
ですからわたくしたちは、(みずか)らの(まず)しさをも()っているとすれば、()たされる手段(しゅだん)をも()っているからであり、()たされることを(ねが)います。一方(いっぽう)で、自分(じぶん)(かか)える本当(ほんとう)(まず)しさ、絶望(ぜつぼう)する(ほか)ない自分(じぶん)については、とても()()ることが出来(でき)ないでいます。ただ、(みずか)らの(まず)しさに()()わないことで、その絶望(ぜつぼう)自分(じぶん)からなくなるわけではありません。依然(いぜん)として(こころ)奥底(おくそこ)(よこ)たわり、(おり)()れてわたくしたちの(うち)にも(そと)にも(かお)(あらわ)してくる。
(しゅ)イエスは、「(こころ)(まず)しい人々(ひとびと)は、(さいわ)いである」と()います。わたくしたちが自分(じぶん)では()()えなかった(こころ)(まず)しさを直視(ちょくし)して、「その(まず)しさを(かか)えたあなたと、わたしが(とも)にいる」と()います。わたくしたちが絶望(ぜつぼう)するほかないこの()現実(げんじつ)(かたわ)らで()て、しかし(しゅ)イエスは絶望(ぜつぼう)していません。()(まえ)にしたわたくしたちに(たい)してもそうです。わたくしたちにとって()けようのない、(せま)()絶望(ぜつぼう)(まえ)にして、しかし(しゅ)イエスは(とも)におられ、わたくしたちに絶望(ぜつぼう)しておられない。
(しゅ)イエスは死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させられ、()すべきこの()へと(しゅ)イエスはやって()られました。(しゅ)イエスはご自身(じしん)復活(ふっかつ)をわたくしたちに(しめ)し、()すべきこの()絶望(ぜつぼう)のただ(なか)に、(いのち)(つく)(ぬし)なる(かみ)さまのご支配(しはい)()たされることを、(あきら)らかにします。(しゅ)イエスは、絶望(ぜつぼう)する(ほか)なかったこの()(とも)におられ、(てん)(くに)()きる(もの)としてくださるのです。