主イエスは荒れ野で悪魔から誘惑を受けました。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と。これに対し主イエスは言います。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』(申命記8:3)と書いてある」と。しかしこのような考えは何か熱狂じみて、理想を追いかけ過ぎのようにわたくしたちは見えるかもしれません。
ただこれらは、死を前にしたわたくしたちにとって、現実のこととして聞こえてきます。明日どうなるかなど判らない命を生きるわたくしたちにとっては、パンだけではなく、神の言葉こそが必要です。
主イエスもそうでした。十字架を前にした晩、主イエスはゲツセマネで天の父なる神さまに祈りました。そこで求めたのは、神さまの言葉です。父なる神さまの御心です。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに(26:39)」。たしかに、このときもわたくしたちはお腹が減るでしょうし、パンを食べねば始まらないことでしょう。ですがそこで食べて満たされても、満足しません。生きるために生きる者にはパンが必要ですが、死ぬために生きる者には、神の言葉が必要です。わたくしたちの命となる神さまの言葉が、この自分の死の先からやって来る必要があります。
そのわたくしたちのために、神さまは十字架で死んだ主イエスを死者の中から復活させ、わたくしたちが死を越えて与る命を明らかにしてくださいました。天の父なる神さまは、主イエスの復活によって、わたくしたちの死の先からこの身へと、神の言葉を与えてくださったのです。
わたくしたちの死の先に神さまが、希望を備えておられます。主イエスの復活において示された、命の希望です。この希望に生かす神の言葉として、主イエスはわたくしたちの死を越えてわたくしたちと共におられます。この言葉によって神さまは主イエス・キリストと共にある新しい命をこのところから始めてくださるのです。