主イエスは命じました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい(28:19,20)」。
教会が洗礼を授ける根拠は主イエスが命じたからに他なりません。ただそのことは、罪ある者の手に、主イエスが洗礼を授けるよう命じた、ということでもあります。
その、わたくしたちが受ける洗礼を、このとき主イエスはヨハネから受けました。ヨハネも、主イエスによって罪から救われなければならない民の一人です。しかしこのヨハネから、罪なき主イエスが洗礼を受けました。そしてわたくしたちは、この主イエスが受けた洗礼を受けます。主イエスは、わたくしたちと共に洗礼を受け、わたくしたちに仕えておられるのです。
わたくしたちが信仰を告白するときには、主イエスが父なる神さまから「わたしの愛する子」と呼ばれたように、わたくしたちも神の愛する子とされて、信仰を告白します。このわたくしたちと共に主イエスがおられます。わたくしたちに仕え、わたくしたちと共に主イエスが告白してくださいます。主イエスが神の愛する子であり、この主イエスがわたくしたちに仕えてくださるので、わたくしたちも、父よと呼べるのです。
わたくしたちは、何も、身を寄せるところなく孤独に生涯を送り、死んでゆくのではありません。むしろ神の愛する子として、神との交わりに生かし、死を越えてわたくしたちを新たに生かす主イエス・キリストが共にいます。その主イエスが決してわたくしたちを見捨てないことを、主イエスは十字架の死をもって証してくださいました。そして天の父なる神さまは、この御子イエスを死者の中から復活させて、御父と御子との交わりが死によっても途絶えないことを証してくださいました。主イエスはわたくしたちの死を越えてやって来られました。この御子イエスと共にあってわたくしたちも、死を越えて天の父なる神さまに呼び掛けられ、神と共にある永遠の命を生かされるのです。