2015年8月9日日曜日

「失って得る命の到来」マタイによる福音書3:13-17


主(しゅ)イエスは命(めい)じました。「あなたがたは行(い)って、すべての民(たみ)をわたしの弟(で)子(し)にしなさい。彼(かれ)らに父(ちち)と子(こ)と聖霊(せいれい)の名(な)によって洗礼(せんれい)を授(さず)け、あなたがたに命(めい)じておいたことをすべて守(まも)るように教(おし)えなさい(28:19,20)」。
教会(きょうかい)が洗礼(せんれい)を授(さず)ける根拠(こんきょ)は主(しゅ)イエスが命(めい)じたからに他(ほか)なりません。ただそのことは、罪(つみ)ある者(もの)の手(て)に、主(しゅ)イエスが洗礼(せんれい)を授(さず)けるよう命(めい)じた、ということでもあります。
その、わたくしたちが受(う)ける洗礼(せんれい)を、このとき主(しゅ)イエスはヨハネから受(う)けました。ヨハネも、主(しゅ)イエスによって罪(つみ)から救(すく)われなければならない民(たみ)の一人(ひとり)です。しかしこのヨハネから、罪(つみ)なき主(しゅ)イエスが洗礼(せんれい)を受(う)けました。そしてわたくしたちは、この主(しゅ)イエスが受(う)けた洗礼(せんれい)を受(う)けます。主(しゅ)イエスは、わたくしたちと共(とも)に洗礼(せんれい)を受(う)け、わたくしたちに仕(つか)えておられるのです。
わたくしたちが信仰(しんこう)を告白(こくはく)するときには、主(しゅ)イエスが父(ちち)なる神(かみ)さまから「わたしの愛(あい)する子(こ)」と呼(よ)ばれたように、わたくしたちも神(かみ)の愛(あい)する子(こ)とされて、信仰(しんこう)を告白(こくはく)します。このわたくしたちと共(とも)に主(しゅ)イエスがおられます。わたくしたちに仕(つか)え、わたくしたちと共(とも)に主(しゅ)イエスが告白(こくはく)してくださいます。主(しゅ)イエスが神(かみ)の愛(あい)する子(こ)であり、この主(しゅ)イエスがわたくしたちに仕(つか)えてくださるので、わたくしたちも、父(ちち)よと呼(よ)べるのです。
わたくしたちは、何(なに)も、身(み)を寄(よ)せるところなく孤独(こどく)に生涯(しょうがい)を送(おく)り、死(し)んでゆくのではありません。むしろ神(かみ)の愛(あい)する子(こ)として、神(かみ)との交(まじ)わりに生(い)かし、死(し)を越(こ)えてわたくしたちを新(あら)たに生(い)かす主(しゅ)イエス・キリストが共(とも)にいます。その主(しゅ)イエスが決(けつ)してわたくしたちを見捨(みす)てないことを、主(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)の死(し)をもって証(あかし)してくださいました。そして天(てん)の父(ちち)なる神(かみ)さまは、この御子(みこ)イエスを死者(ししゃ)の中(なか)から復活(ふっかつ)させて、御父(みちち)と御子(みこ)との交(まじ)わりが死(し)によっても途絶(とだ)えないことを証(あか)してくださいました。主(しゅ)イエスはわたくしたちの死(し)を越(こ)えてやって来(こ)られました。この御子(みこ)イエスと共(とも)にあってわたくしたちも、死(し)を越(こ)えて天(てん)の父(ちち)なる神(かみ)さまに呼(よ)び掛(か)けられ、神(かみ)と共(とも)にある永遠(えいえん)の命(いのち)を生(い)かされるのです。