主イエスはペトロに言いました。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」。主イエスはペトロの殉教を予告します。
わたくしたちはペトロと異なりますが、わたくしたちも、自らの肉体において死ぬということを、避けて通れません。わたくしたちも、若いときには行きたい所へ行っていても、年をとると、行きたくないところへ連れて行かれることになる、と自らを指して言うことができます。
ただ、わたくしたちは、何か絶望や虚無に向かってひとり連れて行かれるというのではありません。十字架で死んで死者の中から復活させられた主イエスが、共におられます。この主がわたくしたちの大牧者です。わたくしたちのすべてを知り、その上で見捨てることなく、生きるにも死ぬにもわたくしたちと共におられます。
わたくしたちの命の造り主、天の父なる神さまは、お造りになった命の責任を全うしてくださいます。神さまの御心は独り子主イエスを信じる者が、ひとりも滅びないで、永遠の命を得ることです(3:16)。神さまは十字架で死んだ主イエスを復活させ、この独り子が、死んでなお天の父なる神さまから切り離されなかったことを、明らかにしてくださいました。この主イエスの復活において現された、永遠の命に向かって、わたくしたちは自らの死においても、この身を差し出すことを許されているのです。
わたくしたちは、自分を懸けてこの身を主イエスにおささげしますから、主イエスを信じる責任は自分にあると考えるかもしれません。ただ一方で、自分の弱さや欠けをおぼえ、主イエスを信じると言いながら破れを抱え歩んできたかもしれません。しかしそのわたくしたちのところに主イエスは来ておられます。破れを抱えるわたくしたちの、この命の責任を主イエスが負ってくださいます。復活の主イエスは、生きるにも死ぬにもわたくしたちと共に歩んでくださるのです。