コリントの教会は、パウロたちがキリストの福音を携え、この地を訪れたことで始まりました。パウロはコリントに一年半もの間滞在し、キリストという教会の土台を据えます(1.3:10、使徒言行録18)。パウロはコリントを去った後、この地の信徒たちに向け「第一の手紙」のほか、繰り返し書き送ります。その前後に、異なる教えの者が現れました。
コリントの教会の者たちは、パウロが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えられ、違った福音を聞かされ、少なからず影響を受けます(11:4)。パウロを使徒として適格と認めず、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と評価する者も現れます(10:10)。パウロは、さらに手紙を送り、コリントの者たちに問いかけます。果たしてコリントにキリストの福音を届けたのは誰だったか。コリントを立てたのは誰だったのか。
そこでもし、自分が誇るとすればそれは、自分がコリントの者たちのところへ行ったこと、そしてこの者たちのところまでキリストの福音を携えたことだ、とパウロは言います。それ以上、限度を超えて誇ろうとはしません。パウロはむしろ自分ではなく主を誇ります。それは主こそが、このコリントの者たちを主のものとして立てたのであり、彼らの信仰を成長させるからです。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です(1.3:6)」。
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キリストの福音、それはこの方の復活によって輝かされた神の顔が、この方の死と復活が告げ知らされることにより、わたくしたちにまで照らし出された、ということです。十字架の死さえ、造り主なる神の顔が輝くところとされた。今やこの復活の主こそが、わたくしたちの死をも超え、わたくしたちを神の顔の前に立たせる。わたくしたちが適格かどうかはただ主にかかっており、わたくしたちは主が立ててくださることを誇るのです。