2019年2月3日日曜日

「ここまで来た神の福音」コリントの信徒への手紙二 10:12-18

コリントの教会きょうかいは、パウロたちがキリストの福音ふくいんたずさえ、このおとずれたことではじまりました。パウロはコリントに一年半いちねんはんものあいだ滞在たいざいし、キリストという教会きょうかい土台どだいえます(1.3:10、使徒言行録18)。パウロはコリントをったのち、この信徒しんとたちにけ「第一だいいちがみ」のほか、かえおくります。その前後ぜんごに、ことなるおしえのものあらわれました。
コリントの教会きょうかいものたちは、パウロがつたえたのとはことなったイエスをつたえられ、ちがった福音ふくいんかされ、すくなからず影響えいきょうけます(11:4)。パウロを使徒しととして適格てきかくみとめず、「手紙てがみ重々おもおもしくちからづよいが、実際じっさいってみると弱々よわよわしいひとで、はなしもつまらない」と評価ひょうかするものあらわれます(10:10)。パウロは、さらに手紙てがみおくり、コリントのものたちにいかけます。たしてコリントにキリストの福音ふくいんとどけたのはだれだったか。コリントをてたのはだれだったのか。
そこでもし、自分じぶんほこるとすればそれは、自分じぶんがコリントのものたちのところへったこと、そしてこのものたちのところまでキリストの福音ふくいんたずさえたことだ、とパウロはいます。それ以上いじょう限度げんどえてほころうとはしません。パウロはむしろ自分じぶんではなくしゅほこります。それはしゅこそが、このコリントのものたちをしゅのものとしててたのであり、かれらの信仰しんこう成長せいちょうさせるからです。「わたしはえ、アポロはみずそそいだ。しかし、成長せいちょうさせてくださったのはかみです(1.3:6)」。
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キリストの福音ふくいん、それはこのかたふっかつによってかがやかされたかみかおが、このかた復活ふっかつらされることにより、わたくしたちにまでらしされた、ということです。十字じゅうじさえ、つくぬしなるかみかおかがやくところとされた。いまやこの復活ふっかつしゅこそが、わたくしたちのをもえ、わたくしたちをかみかおまえたせる。わたくしたちが適格てきかくかどうかはただしゅにかかっており、わたくしたちはしゅててくださることをほこるのです。