パウロはこれまで、苦労を人一倍重ねてきました。「川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難」。投獄され、鞭打たれ、死ぬような目にあってきた。でも、パウロは自分の苦労を自慢しません。パウロはむしろ、自分が困難にあってもなお立ち上がらせていただいた、その事実に目を向け、誇ります。
数々の労苦、困難。そこでなおパウロを立たせてきたのは、主イエス・キリストです。パウロは「あのとき自分はキリストにとらえられた」という出会いに信頼を置きます。「キリストを死から復活させた神が、この自分を立たせてくださった」。そう、こちらの側から言い得るとすれば、それはキリストに仕える者として立たせていただくことにおいてです。そしてもはや何も、神の前に立つのに妨げるものなどないということを、神さまはキリストの復活に表してくださいました。
キリストを迫害する者であったパウロが、キリストに仕えるゆえ迫害される側になりました。苦難にあっても、キリストが立ててくださいました。パウロは、そうやって一人ひとりを立てるキリストに仕えます。「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」。他でもないキリストが、困難にあるわたくしたちに心を燃やしておられます。そしてなおこの身を立たせてくださるのです。
教会は、キリストを死から復活させた神を宣べ伝え、その働きに仕えます。一人ひとりがキリストによって立つため、お仕えします。キリストが、困難にあるわたくしたちを神の前に立ち上がらせてくださるからです。わたくしたちも、キリストにとらえられた出会いへと、共に立ち帰らせていただきます。キリストによってその一人が立てられてこそ、教会はなおもキリストの体として造り上げられていくのです。