2019年2月24日日曜日

「キリストに仕える者」コリントの信徒への手紙二 11:16-33

パウロはこれまで、苦労くろう人一倍ひといちばいかさねてきました。「かわなん盗賊とうぞくなん同胞どうほうからのなん異邦人いほうじんからのなんまちでのなんでのなん海上かいじょうなんにせ兄弟きょうだいたちからのなん」。投獄とうごくされ、鞭打むちうたれ、ぬようなにあってきた。でも、パウロは自分じぶん苦労くろう自慢じまんしません。パウロはむしろ、自分じぶん困難こんなんにあってもなおがらせていただいた、その事実じじつけ、ほこります。
数々かずかず労苦ろうく困難こんなん。そこでなおパウロをたせてきたのは、しゅイエス・キリストです。パウロは「あのとき自分じぶんはキリストにとらえられた」といういに信頼しんらいきます。「キリストをから復活ふっかつさせたかみが、この自分じぶんたせてくださった」。そう、こちらのがわからるとすれば、それはキリストにつかえるものとしてたせていただくことにおいてです。そしてもはやなにも、かみまえつのにさまたげるものなどないということを、かみさまはキリストの復活ふっかつあらわしてくださいました。
キリストを迫害はくがいするものであったパウロが、キリストにつかえるゆえ迫害はくがいされるがわになりました。苦難くなんにあっても、キリストがててくださいました。パウロは、そうやって一人ひとりひとりをてるキリストにつかえます。「だれかがよわっているなら、わたしはよわらないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしがこころやさないでいられるでしょうか」。ほかでもないキリストが、困難こんなんにあるわたくしたちにこころやしておられます。そしてなおこのたせてくださるのです。

教会きょうかいは、キリストをから復活ふっかつさせたかみつたえ、そのはたらきにつかえます。一人ひとりひとりがキリストによってつため、おつかえします。キリストが、困難こんなんにあるわたくしたちをかみまえがらせてくださるからです。わたくしたちも、キリストにとらえられたいへと、ともかえらせていただきます。キリストによってその一人ひとりてられてこそ、教会きょうかいはなおもキリストのからだとしてつくげられていくのです。