2019年1月27日日曜日

「真心から神に結ばれ」コリントの信徒への手紙二 10:1-11

自分じぶんがキリストのものだとしんじきっているひとがいれば、そのひとは、ぶんおなじくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度いちどかんがえてみるがよい」。そう、パウロは、かれをキリストの使徒しととしてみとめないもの反論はんろんします。ただ、ここでパウロは自分じぶんただしさを主張しゅちょうしません。一人ひとりひとりが、キリストのからだ一部いちぶとして、つくげられることをねがいます。
パウロ自身じしん、かつて教会きょうかい迫害はくがいするものでありながらいまやキリストにしたがものとされました。このあゆみがはじめられたのは、キリストをから復活ふっかつさせたかみちからによります。このかみちからは、十字架じゅうじかいたるまでへりくだってくださった御子みこキリストにあらわされました。復活ふっかつさせられたこのかたいまてんかみみぎし、にあるわたくしたちにのぞんでおられ、わたくしたちをキリストのものとします。これはパウロの理屈りくつ思惑おもわくかみについての知識ちしきやぶられる出来事できごとでした。
パウロは「あなたがたをたおすためではなく、つくげるため」自分じぶんがキリストの使徒しととしてたされているといます。パウロをみとめないものたちも、キリストのものとされました。キリストが、人間にんげん思惑おもわく理屈りくつかみちからをもってやぶり、べてくださったからです。そうやって、わたくしたちも真心まごころからかみむすばれ、キリストにしたがあゆみがはじめられます。一人ひとりひとりがキリストのからだ一部いちぶとしてつくげられ、キリストのからだとして教会きょうかいげられてゆきます。
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そのあゆみが先人せんじんたちをとおし、わたくしたちのところにまでとどけられてました。まだわたくしたちはそのいちしからず、キリストのからだなる教会きょうかいすべてについては、おぼろげにるばかりです。完全かんぜんなものがるときには、ほかのものはすたれます。御子みこキリストがてくださるそのまで、わたくしたちはみなかおおおいをのぞかれ、かがみのようにしゅ栄光えいこううつしながら、栄光えいこうから栄光えいこうへと、しゅおな姿すがたつくりかえられてゆきます (3:18)。