「自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい」。そう、パウロは、彼をキリストの使徒として認めない者に反論します。ただ、ここでパウロは自分の正しさを主張しません。一人ひとりが、キリストの体の一部として、造り上げられることを願います。
パウロ自身、かつて教会を迫害する者でありながら今やキリストに従う者とされました。この歩みが始められたのは、キリストを死から復活させた神の力によります。この神の力は、十字架の死に至るまでへりくだってくださった御子キリストに現されました。復活させられたこの方は今や天の神の右に坐し、地にあるわたくしたちに臨んでおられ、わたくしたちをキリストのものとします。これはパウロの理屈や思惑、神についての知識を打ち破られる出来事でした。
パウロは「あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるため」自分がキリストの使徒として立たされていると言います。パウロを認めない者たちも、キリストのものとされました。キリストが、人間の思惑や理屈を神の力をもって打ち破り、手を差し伸べてくださったからです。そうやって、わたくしたちも真心から神に結ばれ、キリストに従う歩みが始められます。一人ひとりがキリストの体の一部として造り上げられ、キリストの体として教会が立て上げられてゆきます。
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その歩みが先人たちを通し、わたくしたちのところにまで届けられて来ました。まだわたくしたちはその一部しか知らず、キリストの体なる教会の全てについては、おぼろげに見るばかりです。完全なものが来るときには、他のものは廃れます。御子キリストが来てくださるその日まで、わたくしたちは皆、顔の覆いを除かれ、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられてゆきます (3:18)。