パウロは、コリントの教会の者たちに対し「神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています」と言います。神さまはイスラエルの民をエジプトから導き出し、ご自身の民とした時、ご自身のことを「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」と呼びました(出エジプト20:5)。パウロはコリントの教会の生みの親として同じ思いを抱く、と言います。
神さまは何にも増してご自身の民を親密なものとしておられます。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした(ホセア11:1)」。たとえ民がかたくなに背いても、民を神から引き離す者があっても、神は主であることをやめず見捨てることができない。「お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。…わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる(同8)」。
神が抱く熱い思い。この思いを、神さまは御子キリストを死から復活させて示してくださいました。たとえ死がわたくしたちを神から引き離そうとも、神はわたくしたちを見捨てない。むしろご自身の熱い思いの前にわたくしたちを立ち上がらせ生かしてくだいます。パウロはこの思いをもってコリントの者たちを「純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げた」と言います。花婿キリストを真心と純潔とをもって待ち望む歩みが始められました。
ただ、神に熱い思いを抱かれているわたくしたちがどのような者であるのか、わたくしたちはまだ全てを知りません。完全な教会など未だありません。そのわたくしたちも、熱い思いを抱く神の言葉の前に繰り返し立たされる中で、その顔をあらわにされてゆきます(3:18)。教会に一人ひとりが加えられ、顔が整えられてゆきます。花婿キリストを迎えるその日まで、このところから完成へと整えられてゆくのです。