2019年2月10日日曜日

「神が抱く熱い思い」コリントの信徒への手紙二 11:1-11

パウロは、コリントの教会きょうかいものたちにたいし「かみいだいておられるあつおもいをわたしもいだいています」といます。かみさまはイスラエルのたみをエジプトからみちびし、ご自身じしんたみとしたとき、ご自身じしんのことを「わたしはしゅ、あなたのかみ。わたしは熱情ねつじょうかみである」とびました(出エジプト20:5)。パウロはコリントの教会きょうかいみのおやとしておなおもいをいだく、といます。
かみさまはなににもしてご自身じしんたみ親密しんみつなものとしておられます。「まだおさなかったイスラエルをわたしはあいした。エジプトからかれし、わがとした(ホセア11:1)」。たとえたみがかたくなにそむいても、たみかみからはなものがあっても、かみしゅであることをやめず見捨みすてることができない。「おまえ見捨みすてることができようか。イスラエルよ、おまえわたすことができようか。…わたしははげしくこころうごかされ、あわれみにむねかれる(同8)」。
かみいだあつおもい。このおもいを、かみさまは御子みこキリストをから復活ふっかつさせてしめしてくださいました。たとえがわたくしたちをかみからはなそうとも、かみはわたくしたちを見捨みすてない。むしろご自身じしんあつおもいのまえにわたくしたちをがらせかしてくだいます。パウロはこのおもいをもってコリントのものたちを「純潔じゅんけつ処女しょじょとして一人ひとりおっと婚約こんやくさせた、つまりキリストにささげた」といます。花婿はなむこキリストを真心まごころ純潔じゅんけつとをもってのぞあゆみがはじめられました。

ただ、かみあつおもいをいだかれているわたくしたちがどのようなものであるのか、わたくしたちはまだすべてをりません。完全かんぜん教会きょうかいなどいまだありません。そのわたくしたちも、あつおもいをいだかみ言葉ことばまえかえたされるなかで、そのかおをあらわにされてゆきます(3:18)。教会きょうかい一人ひとりひとりがくわえられ、かおととのえられてゆきます。花婿はなむこキリストをむかえるそのまで、このところから完成かんせいへとととのえられてゆくのです。