「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。」「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。主はこう約束し、ご自分の民をインマヌエルの民として産み出そうとします。インマヌエル、それは「神は我々と共におられる」という意味の呼び名です。
この約束の実現として、マタイによる福音書はおとめマリアに宿った御子イエスの誕生に見ます。マリアもヨセフもこれから結婚しようとする二人にとって早くも、そこに立っていくことができるのか、危機にさらされていました。二人に求められたのは、静まって主の言葉に聞くことでした。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」ヨセフは静まって主の声に聞くこと、インマヌエルとなることを求められます。
我々と共におられるのは、神だということ、そこからなお、この約束のもとに自分たちが立っていく。その歩みは、「もし自分たちがなお立てるなら、それは主が共におられるからだ」ということにこの身をかけることに他なりません。そしてこれが、単に人間の側からの思い込みではなく、造り主なる神が、わたくしたち人間に与えてくださった約束であるということを、神さまはおとめマリアから生まれた御子、インマヌエルと呼ばれるイエスによって、証ししてくださいました。
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生まれてきた御子イエスは、十字架で死ななければなりませんでした。しかし神はこの方を死から復活させてくださいました。御子イエスは死んでしまっても、「我々と共におられるのは、神なのだ」と顔を上げさせられたのです。そして礼拝においてご自身の復活を証しし、わたくしたちをもインマヌエルの民として、神が共におられる民として立ち上がらせ、「我々と共におられるのは、神なのだ」と顔を上げさせられる道をゆかせるのです。