2018年12月2日日曜日

「神は我々と共におられる」イザヤ書 7:1-17

「ダビデの家いえよ聞きけ。あなたたちは人間にんげんにもどかしい思おもいをさせるだけでは足たりず、わたしの神かみにも、もどかしい思おもいをさせるのか。」「見みよ、おとめが身みごもって、男おとこの子こを産うみ、その名なをインマヌエルと呼よぶ」。主しゅはこう約束やくそくし、ご自分じぶんの民たみをインマヌエルの民たみとして産うみ出だそうとします。インマヌエル、それは「神かみは我々われわれと共ともにおられる」という意味いみの呼よび名なです。
この約束やくそくの実現じつげんとして、マタイによる福音書ふくいんしょはおとめマリアに宿やどった御子みこイエスの誕生たんじょうに見みます。マリアもヨセフもこれから結婚けっこんしようとする二人ふたりにとって早はやくも、そこに立っていくことができるのか、危機ききにさらされていました。二人ふたりに求もとめられたのは、静しずまって主しゅの言葉ことばに聞きくことでした。「ダビデの子こヨセフ、恐おそれず妻つまマリアを迎むかえ入いれなさい。マリアの胎たいの子こは聖霊せいれいによって宿やどったのである。」ヨセフは静しずまって主しゅの声こえに聞きくこと、インマヌエルとなることを求もとめられます。
我々われわれと共ともにおられるのは、神かみだということ、そこからなお、この約束やくそくのもとに自分じぶんたちが立たっていく。その歩あゆみは、「もし自分じぶんたちがなお立たてるなら、それは主しゅが共ともにおられるからだ」ということにこの身みをかけることに他ほかなりません。そしてこれが、単たんに人間にんげんの側がわからの思おもい込こみではなく、造つくり主ぬしなる神かみが、わたくしたち人間にんげんに与あたえてくださった約束やくそくであるということを、神かみさまはおとめマリアから生うまれた御子みこ、インマヌエルと呼よばれるイエスによって、証あかししてくださいました。
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生うまれてきた御子みこイエスは、十字架じゅうじかで死しななければなりませんでした。しかし神かみはこの方かたを死しから復活ふっかつさせてくださいました。御子みこイエスは死しんでしまっても、「我々われわれと共ともにおられるのは、神かみなのだ」と顔かおを上あげさせられたのです。そして礼拝れいはいにおいてご自身じしんの復活ふっかつを証あかしし、わたくしたちをもインマヌエルの民たみとして、神かみが共ともにおられる民たみとして立たち上あががらせ、「我々われわれと共ともにおられるのは、神かみなのだ」と顔かおを上あげさせられる道みちをゆかせるのです。