パウロは、悔い改めについて語ります。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。パウロは「神の御心に適った悲しみ」と、「世の悲しみ」とを分けて語ります。そして誰もが世の悲しみに留まらず、神の悲しみを神から知り、このわたしを救う神の正しさに平伏すよう求めます。
いわば、「神の御心に適った悲しみ」とは、神の慈しみに全てをかけることにあります。これは、わたしをなお慈しむ神への、たゆまぬ信頼です。その始まりは、自分の感情にではなく、なおこのわたしを慈しむ神の声に聞くことにあります。そしてわたくしたちにとって本当に必要なのは、最後の最後、自分が受け入れられている、という認識ではないでしょうか。惨めに立ち尽くすほかない自分がいる。その自分が、どういうわけだか判らないけれど、ついに受け入れられている。
「お前は良い。お前はここにいろ。お前はわたしのものだ」。そう言ってくださる、わたしを救う神の声を、わたくしたちは求めます。そして造り主なる神さまは、十字架につけられて死んだ主イエスを死から復活させることで、命の源からの声を響かせてくださいました。神さま、この主イエスの死と復活に与る洗礼を授け、わたくしたちにもこの声を響かせてくださいます。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。
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わたしを受け入れ、この身を立ち上がらす造り主の声を聞かせるため、主イエスはわたくしたちを礼拝に招き続けます。わたくしたちは、わたしを救う神の言葉を告げられ、知らされ、そこに顔を上げさせてもらうことが必要です。それは、最後の最後、この声のもとに、わたくしたちは立ち上がらされ、命を得るからです。たとえ世にあって、どこまでも終わりなく責められても、しかし神はそうではない。そして最後には、神の救いの言葉が、わたくしたちを生かすのです。